オープニングとエンディングの関係
オープニングでそれぞれの幼少の頃のシーンが登場します。一見単なるプロローグでしかないように思われるこの場面ですが、実は“それぞれのエンディング”ともいうべき「ふたりのラストシーン」と繋がるものとなっていたのです。
幼い頃のポーランドのベロニカは「ほら、あれがクリスマス・イヴの星よ」と言う母に抱きかかえられて星空を見上げています。
彼女の母は「薄い雲のように見えるものは数百万の星が集まっているものなのよ」と、天空に広がる壮大な宇宙の神秘的な美しさを伝えていました。
ポーランドのベロニカは持って生まれたその才能により、舞台の上でどこまでも高く伸び上がる美しいソプラノを奏で続けましたが、その音域での歌声に心臓が耐えられず命を落としてしまいました。
そして彼女の最後の場面としてカメラが映すのは、埋葬される彼女自身の「空を見上げる視点」でした。
夜空の星々を見上げていた少女は天高く伸びてゆく美しい歌声を持っていましたが、その歌声という翼は天へと昇る途中で焼け落ちてしまったのです。まるでギリシア神話のイカルスの物語のように──
そして幼い頃のフランスのベロニカは「若葉よ。春になると葉っぱが出てくるの」と言って母が差し出した一枚の葉っぱを虫眼鏡で見つめています。
彼女の母は一枚の葉の中に見える葉脈や産毛といった、手に届く小さな世界の中で感じ取れる生命の息吹のようなものを伝えていました。
フランスのベロニカは最後の場面で、自身が感じた「もうひとりの自分が消えてしまった悲しみや喪失感」を受け止め、自分が今この世界に生きているということ、自身の命は消えていないことを改めて実感するかのように木の幹に触れ、そこに宿っている生命の鼓動のようなものを感じ取ろうとしていたように見えました。
こういったふたりの異なる描写から見えてくるのは、
ポーランドのベロニカが生きたのは、ある種の神々しさと美しさを放ちながらも、限られた命のなかで一瞬の輝きを放つ──そんな美しくも儚い、非現実的とも思える世界
フランスのベロニカが生きていくのは、派手さはなくても(自身は音楽活動をやめて子供たちに教える仕事を選んだ)愛を感じる生活を送り、大地に根をはる木のようにこの先も人生を歩んでいく──そんな堅実で現実的な世界
であったように思います。ツインレイとしてそれぞれの役割を果たし、一方の魂は天に召され、もう一方の魂はその生涯を全うしたのちに、先に天へ昇った魂と再びひとつになるのだろうと願いたいです。
ふたりを知る唯一の人物?
映画を見て気付いていた方もおられるかもしれませんが、両方のベロニカの会っている人物がひとりだけいたことに、今回初めて気がつきました。
というか「あれっ?」と一応気にはなっていたのですが…
その人物が登場したのは以下の場面。
【ポーランドのベロニカ】
オーディションのとき、後ろのほうに座っている女性が険しい顔でベロニカを見つめている
【フランスのベロニカ】
送り主の男を探しに「サン・ラザール駅」へやってきたベロニカを、女性が険しい顔で見つめる
そのすぐあと、駅の外へ出たベロニカを同じ女性がカフェのテラス席から見つめている
彼女が何者なのかは全く不明ですがどちらも同じ女性です。そしてどちらの場面でも、何故彼女が険しい顔でベロニカを見つめているのかも謎。
彼女の存在・彼女の役割とは一体何だったのでしょうか…。
「ふたりのベロニカ」がツインレイの関係で、ポーランドのベロニカが先導者として先に経験する者で、フランスのベロニカがその経験を感受しそれを人生に活かし命を繋いでいく者という役割を与えられているのだとしたら、ふたりを見つめるこの女性がふたりに与えるものとは何だったのか──
ポーランドのベロニカを見つめていたのはベロニカがオーディションを受けたときです。
それはつまりベロニカが自身の才能を解放し表舞台で脚光を浴びる場を摑んだ日でもあり、同時に彼女の命の灯が消える日を決めてしまったときでもあります。
フランスのベロニカを見つめていたのは、ベロニカが運命の恋人となる男・アレクサンドルを見つける直前でした。ベロニカは彼と出会い、恋人となることでポーランドで撮った写真に「もうひとりの自分」の姿を見つけることとなります。
また彼が作った人形と新しい物語のストーリーによって「同じ魂が分かれて生まれた存在でありながら、同時に舞台に立つことがない宿命のふたりの女性」であることと、それが自分と「もうひとりのベロニカ」の運命であることを知ることにもなりました。
それを考えると、ふたりを見つめていたあの女性は、ポーランドのベロニカには
このオーディションの結果がベロニカの命を終わらせてしまうこと、そしてそれを知っていても運命を変えることが出来ないこと──
それらの思いが、あの表情となって表れたのかもしれません。(周りの人たちはみなオーディションの成功を喜んでいました)
一方のフランスのベロニカに対しては、彼女は険しい表情のようでもあり驚いているようでもあるという、ちょっと複雑な表情を見せていました。これは
死んでしまったはずのベロニカに(フランスで)遭遇したことへの驚き
または出会うことになる男との関係によって「もうひとりの自分」の存在を知るという、ベロニカの運命(※)を慮ってのもの
※それは大きな喪失感と悲しみの感情をベロニカに与えることとなった
といった理由によるものなのかもしれません。ですが実際、このときの彼女の表情が何を意味するのかは誰にも分かりません。できるのは推測することだけです。
もしかしたら彼女は「ふたりのベロニカ」の運命を見届ける番人のような役割(ただし決して関与しない)だったのかもしれません。ヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』とその続編『時の翼にのって』に登場する天使たちが、常に人間の傍に寄り添いながらも決して人の人生に関与しないように。
またスピリチュアル的な見方をすれば、過去生で2つに分かれたベロニカの魂と関係のある人物だったのかもしれません。
『トリコロール三部作』のパンフレット(3作セットで1つのパンフレットとなっています)の『~赤の愛』のところに、監督の言葉として興味深い一節が書かれています。
「クローズ・アップが好きなのは少しでも心の中を見たいと思うから。人の心の中が見えるはずはないのだけれど、些かなりとも近づこうとしているのだと思います。鏡や窓や隙間を通して何かを見るシーンも私の映画には確かに多い。これもいつも見えない何かを見ようとする気持ちが私にあるからでしょう」
見えない糸に導かれ、歩みだす人々の姿。三人目のベロニカを思わせもするヒロインと判事の結び付き。見えないはずの愛のありかに希望を託し結びつけられる人と人。三部作をまんまとひとつに束ねこむラストまで貫かれるキェシロフスキの眼差しの意志。その粘り強さが『赤』を鮮やかに支配している。
たしかに今作でも窓や鏡越しに何かを見るシーンがとても多く見られました。こういった監督の考え・意図を知ったうえで今一度見てみると、この映画がより面白く感じられそうです。
そして「三人目のベロニカを思わせもする」と書かれているように、イレーヌ・ジャコブが演じる『~赤の愛』の物語は『ふたりのベロニカ』の世界観と通じるものがかなりあります。もし『~赤の愛』をまだ見ていないという方は、そちらも見てみることをオススメします。全く別の映画でありながら人の結びつきや運命の不思議さなど、今作と共通するテーマをきっと感じ取ることができることでしょう。
でも三部作全部を順番に見ないとダメなんでしょ
と思われるかもしれませんが、基本的に全て別々の物語でストーリー的な繋がりはありませんので『~赤の愛』だけ見る、というのでも全く問題ありません。
この三部作のレビューも書いていますので、すでに映画を見られた方はぜひそちらも読んでいただければと思います。
静かな余韻を残す今作。もしかしたら私たちにも世界のどこかにベロニカのような「もうひとりの自分」が存在しているのかもしれません。もしそうだったら、自分の役割とは何なのでしょう。いつかその「もうひとりの自分」に出会う日がくるのかもしれませんね。
comment