正直なところ、最初にこの『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』を見た感想は
悪くはないけどそこまでの映画ではないかな…
といったところでした。
上映時間が97分と短めなので、それぞれの背景の描写やタイラーとザックの関係が深まっていく過程もちょっと急ぎ足で、なおかつ色々と都合良く物事が進んでいくところに物足りなさを感じられたからかもしれませんが、おそらく本当の理由は自分が「レビューを書くことを目的として見てしまった」ことにあるようです。これはよくない…。
ですが本国での評価の高さ──小規模映画が徐々に評判を呼んで興行成績的にも成功を収め、さらに批評家たちや観客からも絶賛されている──ということを知って、この映画の何がそこまでアメリカ人を惹き付けているのか、見終わってから気になったのでした。
「Rotten Tomatoes」ではトマトメーターが95%、オーディエンス・スコアが96%となっており、さらにインターネット・ムービー・データベース(IMDb)のほうでも10点満点中の7.6と、本当に高く評価されている作品のようです。
それでIMDbのレビューや向こうのレビュー記事などを少し読んで「これではダメだ」と思い(笑)、改めて何度か見直してみてようやくこの映画の良さが徐々に分かってきたのでした。
やっぱり一度見ただけではと細かい部分を見落としていたりするし、映画を見たときに自分が「作品全体の中のどの部分に意識が向いているか」の違いで得られる印象や情報量が全然違ってきたりするんですよね。二度目に見たときは精神的にちょっと落ち込んでいたんですが、そういうときのほうが気付きやすいものがあるかもしれません。
タイラーとザックの関係
まず、この映画はダウン症の若者が主人公の物語ではありますが、かといって必要以上に善意やモラルを見る側に押し付けるような描き方はしていないところが良かったように思います。
こういうセンシティブなテーマを扱うと過度に配慮したような内容になってしまったり、ある種の恩着せがましさみたいなものが感じられたりしがちですが、当の本人であるザックがそれを求めていませんし、むしろザックがそれまでの人生で「そういう扱い」を受けてきたために
俺はダウン症だ
ということを自ら口にし、逆にタイラーに「そんなことはどうでもいい」と言われます。(ふたりが仲良くなる前に)
タイラーは追ってくるダンカンたちから逃げることで頭がいっぱいなのでザックが何者かなんて気にしていない、ということもありますが、もしかしたら彼の中での「社会的弱者だとか優しく接しなければならないとされる者」へのスタンスがそもそも世間の常識とは違っているのかもしれません。
泳げないザックに子どもが「R-word」(※これについてはあとで解説します)を使ってバカにしながら無理矢理高い場所から川に飛び込ませた場面で、タイラーはザックを助けるべく川に飛び込む前に躊躇せず子どもをグー手で殴りました。
この行為の善悪についての話をしたいわけではありません。ただタイラーという男が、ダウン症の青年も悪いことをした子どもも(いい意味でも悪い意味でも)特別扱いしない人間であることを表している場面だった──ということです。
→だから何だ
→だから殴った
こういうスタンスで人を見ている男なのでしょう。
ザックは自分のことを「可哀想な立場の人として」優しくされるにしても「面倒な奴」扱いされるにしても、自分から「俺はダウン症だ」と告げることで相手にどちらかにしてもらおうとボールを投げるわけですが、
このタイラーという男はどういうわけかダウン症の自分のことを何とも思っていないようだ──
というところがザックにとっては心地良かったのでしょう。
ザックが高齢者施設から逃げ出した男だということを知り、トウモロコシ畑?でぽつねんと待っていたザック向かって指を指しながらグハハと笑って
お前も追われる身だったのかよ~
と言ったときのザックの「まぁな、えへへ」みたいな笑顔。いっぱしの男として扱ってもらった嬉しさが顔に出ているこのシーンが私は好きです。さらにタイラーが
お尋ね者同士ならうまくやれる
無法者コンビだ
と続けたあとのザックの力強い「Oh Yeah!!」という雄叫びが、どれだけザックが嬉しがっているのかをよく表しています。そのすぐあとにザックが提案した「二人だけの特別な挨拶」も、いつかそれを使う日がくるのを夢見て昔から考えていたものなのでしょう。
タイラーがザックを特別扱いしないのはおそらく、タイラーがよく出来た人間だからというわけではなくて、自分のせいで兄を死なせてしまったことで人生を見失っていて「誰に対しても心を開いていない」という、ある意味周りの全てに対してフラットな状態だったからなのかもしれません。
でも結果的にそんな状態のタイラーとザックが出会い、対等な友情関係を築き、お互いの心の痛みや隙間(タイラーにとっては兄を失った喪失感、ザックにとっては家族に捨てられ施設では優しくされるが自立させてもらえず対等な関係も築かせてもらえない)を埋める存在となっていったことを考えると、ふたりにとってこの出会いが必然でかけがえのないものだったことが分かります。
施設にいるときのザックはパステルイエローのポロシャツに半ズボン、白のソックスに白いスニーカーといった出で立ちで、まるで親や保護者から行儀良くすることを押し付けられた子どものような格好をしていました。
それはプロレスラー(しかも悪役)に憧れ二度も脱走を試みる自立心の高いザックの本質にはまるでそぐわないものでしたが、のちにタイラーから貸してもらうことになる黒のプリントTシャツにハーフパンツ、そして白の長靴(これは善玉のプロレスラーが履くリングシューズを思わせる)という姿はオープニングでのザックとはまるで違って、外の世界で普通に暮らしている男たちとなんら変わらない男に映ります。長靴はちょっとアレだけど(笑)。
人間の善悪は魂で決まる
そんなふうに少しずつ心を開いていったタイラーとザックが夜に語り合うシーンは、この映画のハイライトとも言える場面のひとつでした。
俺の夢はプロレスラーになることだ
悪玉になる
なぜ悪玉なんだ
家族に捨てられたからさ
お前は悪くない
いい奴も捨てられる
妙な笑い声も 黒い衣装も
アイシャドウも関係ない
人間の善悪は魂で決まる
お前は善玉 ヒーローだ
それは変えられない
ヒーローなんて無理だよ
だって俺はダウン症だ
魂と何の関係が?
誰が言った?
コーチたちだ
コーチか 彼は何て?
俺がウスノロだって
(I am retarded.)=「俺が知恵遅れだって」※なお冒頭ではソルトウォーターのビデオを見ていたザックに施設の男性職員が「Bedtime, retard.」と言っています。エレノアの接し方を見るとあの施設がとても良いところのように見えますが、このような最悪なことを平気で言う職員もいるということです
コーチが?
そいつのチーム 弱いだろ
──無言──
やっぱりな
そりゃ人間
できないこともある
お前だって全部は無理だ
バスケ選手とか──
オリンピックの水泳選手とかな
筋肉だらけで石みたいに沈んじまう
筋肉は重いんだ
さっきは驚いたぜ
大人でも あんな怪力は珍しい
お前は強い
コーチはクソ野郎だ
タイラー
ああ
ボートに乗ってたのは誰?
ダンカンとラットボーイだ
あの人たちは善玉? 悪玉?
悪玉だ
タイラー
うん
君は善玉? それとも悪玉?
さあな
どう思う?
君はいい奴だ
──無言──
ここでのタイラーの回想シーン(夢?)で、兄マークが死んだ原因が自身の居眠り運転による交通事故であることが判明します。
タイラーにとって兄がどれほど大きな存在だったのかはこれまでの回想シーンでも明らかです。そんな大切な兄を失っただけでなく、その原因が自分の過失であったことがタイラーの心を壊してしまっていたのでした。
ザックはダウン症であるがゆえに純粋で、その発言や行動には嘘や偽りがなく(この表現に気を悪くされる方がいたらお詫びします)、善人か悪人かを見抜く力があるのだと思います。そのザックに「君はいい奴だ」と言われたことはタイラーにとって非常に大きな意味を持ちますが、タイラーの魂が本当に救われることとなるのはもう少し後になります。
翌日ふたりは信心深い盲目の黒人男性・ジャスパーと出会い、彼の“儀式”によってタイラーの魂は導かれ、ザックの言葉によってタイラーの心の傷は癒されることとなったのでした。(ジャスパーの洗礼を受けたのはタイラーではなくザックでしたが)
新たな人生の始まりの日だ
もう怖れることはない
神が守ってくださる
恵みを受け入れろ
過去のオオカミどもを
葬り去るんだ
ジャスパーにもらった木材とドラム缶などで作った筏(いかだ)で川をゆっくり下る二人。ここでザックがタイラーの肩に手をかけて言います。
タイラー
俺の誕生日の願い事は全部──
君にあげるよ
自身の過去を話さなくてもザックが彼の心の痛みを感じ取ったのか、それとも友情の証としてこう言ったのかは分かりませんが、とにかくタイラーはザックの昨晩の言葉とこの言葉によって救われたのだと思います。
また、のちに合流することになるエレノアも夫との死別という大きな喪失を心に抱えていることがあとで明かされますが、タイラーとザックが去ったあとにジャスパーの家を訪れており、やや強引に「中でイエスの話をしよう」と家に引き入れられたところをみると、彼女もまたジャスパーによって(というかジャスパーを通じて神から)癒しを与えられていたのではないか、ということが推測できます。
エレノアにとっての癒しはタイラーたちと行動をともにする中で得られていきますが、あの盲目の男の家を訪れたとき「後に訪れる魂の解放への扉の鍵」を開けてもらっていたのかなと、そう思いました。
つまり、ただ単にザックの後を追って1日遅れで同じ場所に立ち寄った──というだけの描写ではなく、ここにもそういった意味を持たせていたのかな、と。
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