映画『メモリーズ・オブ・サマー』──この思い出のなかに優しさはあるのでしょうか

メモリーズ・オブ・サマー ENTERTAINMENT
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 ここしばらく、マーベルやDCなどのアメコミ映画ばかり観に行っていたのですが、久しぶりにミニシアター系の映画が観たくなって今回行ってきたのが、こちらの2016年のポーランド映画『メモリーズ・オブ・サマー』です。

 舞台は1970年代末、ポーランドのとある小さな町で母親と2人で暮らす12歳の少年が主人公の物語。

 現在のポーランドはEU諸国の中でも経済的に大きく成長している国として存在感を増しており、また最近では日本との結び付きも度々ネットやテレビなどで取り上げられたりして、日本人のポーランドに対する印象も昔と今とでは大きく変わってきていると思われますが、自分のような中年世代(第二次ベビーブーム世代)にとってのポーランドというと、やはりかつての旧東側諸国のひとつであり、旧共産圏の国であった──という印象が根強く残っています。そしてポーランドの有名なものは何かと聞かれれば「ズブロッカ」と答えた人は多かったのではないでしょうか。(もちろん大戦後〜現在という範囲での印象です)

 そんな時代のポーランドの、さらに田舎の小さな町が舞台なので、人々の生活は実に質素で娯楽も少なく、現代のような複雑で入り組んだ社会や人間関係といったものもない分だけ、主人公のピョトレック少年をはじめとする登場人物の心情や問題、悩みなどがくっきりと描き出されているように感じました。

 グアテマラの山の中にある村を舞台とした映画『火の山のマリア』を見たときも感じたことですが、時代や環境、人が得られる豊かさや情報量など、今の私たちと大きな差があったとしても、人間のすることなんて結局のところあまり変わりはないんだな、ということをこの映画でも思い知らされた次第です。

 

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 人は皆どこかに孤独を抱いていて、誰かに何かを求める生き物のようです。子は親を、男は女を、女は男を──。

 また子どもは人生のある時期で、もう自分が今までのような「子ども」ではいられなくなる出来事を経験し、思春期を経て成長していくということ、そして少年と少女との精神的な成長には差があることや、女がとる行動には、ときに男の(なんでも理屈で考えようとする)頭では理解できないことがある、ということも改めてこの映画を見て再認識させられたのでした。

 

 

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子どもが背負うには重い現実

 仕事で遠くへ行っているため、父が家にいないという環境は自分の子ども時代と被るので、もし自分がピョトレックと同じ体験をしていたらもっともっと早い段階でキャパを越えて、バケツから水が溢れるように「何かを起こして」いたんだろうなと思います。

 オープニングの場面が物語のラストシーンに繋がるわけですが、今振り返ると自分もそういうところがあったように思うので、ピョトレックのあの行動、分かるような気がします。

 子どもって、家族のことで悲しいことや理不尽な出来事が積み重なって「心のバケツ」が満タンになってもうダメだ…って溢れてしまうとき、誰かを傷付けるのではなくて自分を傷付けるような行動(実際にはそれをしなくても)を取ってしまったりしますよね。そうすることで自分がいかに辛いのかを知らせようとするのでしょうね。

 12歳の男の子にとって、母が父以外の男と親密になっているらしい現実はあまりにも難しすぎる問題であり、さらにそれと同時進行で、都会から夏休みの間この町へやってきた気になる少女マイカのことでもショックを受けることになります。とてもじゃないけど、どちらも12歳がうまく立ち回れるようなレベルの問題ではありません。

 今までと同じ形の幸せを望む「子ども」のピョトレックにとって、「理屈では理解できない」行動を取ることになる母と、自分より早く思春期の扉を開いて先に進んでいった女の子のことを納得して受け入れられるはずもなく…

 

 

母とのこと、少女とのこと

 12歳のピョトレックにとって、母は「母」であり(当たり前ですが)、そしてマイカは自分と同じように“子どもの世界”を共有できる「好きな女の子」という存在ですが、母ヴィシャは「ピョトレックの母」であると同時に「長い間夫と離れて暮らしている女」であり、マイカも世代的にはピョトレックと同じ頃の年齢であっても、十代の女の子は男子よりちょっと先に大人になるもの──。

 ピョトレックは何も悪いこと・間違ったことをしていないのだけれど、マイカは自分に対してひどいことをした不良青年スコヴロンに惹かれていく。その行動・心の移り変わりは12歳の男の子にとっては予想も理解もできないものだったりします。こういったことは中学生でも高校生でも、場合によってはそのさらに上の世代でも同様に起こりうることで、おそらくは国や時代が違ってもそう変わらないものなのでしょう。

 秘密の遊び場である「石切場の池」でのピョトレックは、母と遊ぶときもマイカと遊ぶときも、まったく同じことをします。同じように叫びながら池に飛び込み、水際で並んでひなたぼっこをし、そして池での一日を満喫して二人で自転車で帰ります。

 つまり「ある夏の一日を一緒に楽しく過ごす」という目的のもとで、恋心?を抱く都会からきた女の子と自分の母親のどちらにも同じものを求めているわけです。

 そういう意味では、ピョトレックはまだ子どもであり、マイカにとっては物足りないものがあったのかもしれませんし、「母」ではなく「ひとりの美しい女」としての一面が表れ始めた母にとっても、子どもはもちろん大切だけども今は…という状態だったのでしょう。まぁ母についてはひと言で言ってしまえば「色ボケしてしまった」ということになるのかもしれませんが(笑)、亭主は出稼ぎでずっと不在で自分も昼間は仕事、そして家では母としての役割とこなすだけという、ただでさえ娯楽のない田舎で、あれだけの女盛りな美人が地味な生活を送り続けていたらこういったことが起こるのもしゃーないのかもしれませんね。。。

 もちろん亭主の立場で考えたら絶対に許せることではありませんが。

 

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