【ヴィム・ヴェンダース監督作】映画『時の翼にのって ファラウェイ・ソー・クロース!』──あなたは人を守り、そのお陰で守られた【Time Itself】

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 この映画をふたたび見ることが出来てとても嬉しく思っています。

 日本では1994年に公開されたヴィム・ヴェンダース監督作『時の翼にのって ファラウェイ・ソー・クロース!』は、1987年のカンヌ映画祭で監督賞を受賞した名作『ベルリン・天使の詩』“続き”とされる物語。

 「続編」という書き方をしないのは、監督自身が

これは『ベルリン・天使の詩』から続く物語であって、“続編”ではない

 と語っていることに由来します。これについてはパンフレットにも書かれているほか、インターネット・ムービー・データベース(IMDB)内のレビューなどでも確認することができます。

 

 

 『ベルリン・天使の詩』はNHKや民放のBSのほかCSでもたびたびテレビで放送されてきましたが、この『時の翼に~』は少なくとも私がスカパーで映画チャンネルを見始めた2006年あたりから現在まで一度も放送されたのを見たことがなく、またレンタルでも見かけることはありませんでした(どちらもたまたま自分が見逃していただけかもしれませんがw)。

 そんなわけで、この映画をもう一度見ることはないのかも…と諦めていた作品のひとつだったのですが、なんと今回ザ・シネマで放送されることに!

 CMで「特集:ヴィム・ヴェンダース」という言葉を耳にしても、どうせ今回もやらないんだろ…と思っていたらまさかのリスト入り! いやー、これにはテンションが上がりました。

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ダミエルとカシエルが人間となって体験することの違い

 『ベルリン・天使の詩』では、人類の創世からこの世を見てきた天使のひとりである主人公ダミエルが、

人間となってこの世界を体験してみたい

という思いを叶え人間として地上に降り立ち、そして天使だったころに魅かれていたサーカスの空中ブランコ乗りの女性・マリオンと出会うまでを描いた映画でした。

 そのダミエルから人間になりたいという思いを聞かされ、そして人間となったときにも側にいたダミエルの親友・カシエルが今作の主人公となります。

 ダミエルが人間となって6年──カシエルは女性の天使ラファエラと共に、東西統一を果たして大きく変わりゆくベルリンの人々を見守っていましたが、やがて自分も人間となってこの世界を体験してみたいと思うようになります。そしてある日、思いがけず彼は人間になるという願いが叶ってしまうのでした。

 守護天使として人類の歴史をその始まりからずっと見守ってきたカシエルですが、永遠の時のなかで世界のあらゆることを見て・聞いてきた天使は全てを「知って」いても、それは天使の側から見聞きしたこととして「知っている」というだけで、それを体験することはもちろんなく、またこの世界に干渉することも許されていません。

 

 

 『ベルリン・天使の詩』では、人間となったダミエルが体験していく様々なことはどれもが「それを実際に感じること、体験できることへの喜び」に溢れており、最初にコーヒー代を恵んでくれた若者や、実は自身と同じく「元天使」であるピーター・フォークなど、優しい人たちとのふれ合いを経て最後に愛する女性マリオンへと辿り着きました。

 それに対して今作でカシエルが人間界で体験することや、カシエルに近付いてくる者から受ける影響はことごとく良くないことばかりで、思い描いていた喜びに満ちた体験とはほど遠いものでした。

 

「人間の一員として、暗い時代を照らす光の使者になる」

 

 天使だったころ、カシエルはそう言っていたのですが、彼の人間としての人生には苦悩と挫折が容赦なく降り掛かります。

 天使の鎧をアンティークショップに売って服とお金を得たダミエルに対し、カシエルはいきなり話しかけてきた男(エミット)にそそのかされ、鎧を売ったお金を路上での違法賭博に使ったうえ、警察に連行されてしまいます。

 その後も知り合いであるかのように近づいてきた男(これもエミット)に酒を勧められたことがきっかけで酒浸りになって路上で物乞いをしたり、彼が天使だった頃に見ていた少年が隠した拳銃(少年は義理の父親に虐待されていて、復讐するために銃を手に入れた)を持ち去り、その銃で脅して酒を盗んだり偽造パスポートを作らせたりと、どんどん深みにはまって転落していきます。

「人間となってこの世界を体験してみたい」

 という願い自体は一応叶っているのかもしれませんが、ここまで人間界のネガティブなものばかり体験させられてしまうカシエルが気の毒になってきます。

パンフレットに載っているエッセイの中に、次のような一文があります。

「天使には子供時代はない」(ヴェンダース)。そのカシエルが「無垢な幼児として」(ザンダー)カラフルな混沌の世界に放り込まれる。

 また同じくパンフレットの冒頭、イントロダクションでは次のような一節もありました。

 暴力と快楽が時の掌上で虚しいゲームを続けている世界にあって、カシエルはあまりにも無力な存在だ。彼は自らの純粋無垢さゆえに苦しみ、堕ちてゆく。地上に落ちた天使ダミエルの愛を通して生きることの喜びを歌った前作とは、合わせ鏡のように対をなす本作では、よりよく生きるために人は何をすればよいのか、世界をよりよい方向に変えるために人は何ができるのかという根源的なテーマのうちに、カシエルの苦悩と救済が描かれる。

 人間となったダミエルの目を通して映るこの世界は「美しいもの」であったと思われますが、カシエルにとってのこの世界はまさに「混沌そのもの」であるように見えます。

 前作でのダミエルと今作でのカシエルの身に起きることの、この大きな違いは一体何なのでしょうか。なぜこれほどまでに大きく違ってくるのか──。それはカシエルが人間になったときのことが関係しているようです。

 前作のダミエルと同様に人間になりたいと願ってはいたものの、カシエルの場合は「なるべくしてなった」わけではありませんでした。

 彼は以前から見守っていたハナとその娘ライサが暮らす旧東ベルリン地区のマンションのバルコニーで、ライサが誤って足を踏み外しバルコニーから転落したのを見て、思わず(ほとんど無意識に)助けてしまいます。

 天使の役割は人間の歴史をただ見守ることであり、人間の行動に干渉することではない

 ときには不安や絶望を抱える人の心に寄り添い、平穏や希望といった感情を思い出させる手助けをしたり、今まさに死を迎えようとする者に寄り添って怖れや不安を和らげたりすることはあっても、人間の行動や運命に直接影響を与えることは許されていないようです。

 『ベルリン・天使の詩』では、電車の中で絶望していた男にダミエルが寄り添うことで男がわずかな希望を取り戻す場面がありました。

 そしてカシエルについてはこのようなことも。

 ビルの屋上から飛び降りようとする若者に寄り添い、若者の気を他のことに向けて思いとどまらせる手助けをしようとしましたが、それでも残念ながら若者は飛び降りてしまいます。カシエルは「Nein!」(ナイン!=ドイツ語で「No!」の意味)と叫び、目を覆います。

 戦争をはじめ、天使としてこれまで幾度も人の死を見届けてきたであろうカシエルですが、今回は転落した少女を助けてしまったことがきっかけとなり、予期せぬ形で人間となりました。

 

 

 前作で若者が飛び降りるのを止められなかったこと(直接的な関与はできない以上、もちろんそれは仕方がないこと)と、今作でカシエルが転落した少女を助けたことは全くの無関係ではないでしょう。

 ダミエルとは違い「摂理から外れたきっかけ」によって人間となったため、彼は

本来この世界に人間として存在するべき者ではない──

そういう立場であるようです。そのため彼には様々な困難が降り掛かり、人間として体験したい喜びや幸せといったものから、どんどん遠ざかってしまいます。

 

 いやでもカシエルの受難って、あるひとりの存在による導きが原因となっているような……

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