【ウォン・カーウァイ監督作】映画『欲望の翼』①──この1分を忘れない【原題の意味と由来】

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登場人物①:ヨディと養母レベッカ

 まずは主人公であるヨディと、女ひとりで彼を育てた養母のレベッカとの関係についてから。

ヨディ

 主人公のヨディは定職に就かず、気ままな生活を送る若者。

 ヨディが真面目に働く普通の人生を送らないのは、自分を束縛する養母レベッカへの当て付けと、彼女から実の母について何も聞かせてもらえないやるせなさからくるものなのかもしれません。

 そんな人生を送っているヨディなので、付き合う女性に対しても世間一般での幸せ=結婚して家庭を持ち、安定した仕事と十分な収入がある暮らし──といったような未来は全く思い描くことが出来ず、その結果付き合う相手を振り回し最後には悲しませてしまうことに。

 そもそもヨディの心の中にある不安定さや欠乏感の根源は「実の母」であり、他の誰かがその欠けている部分を補うことはできません。だから彼はいつもどこか遠くを見ていて、今そのときを生きていないように見えます。

 例えばヨディの親友のサブから見れば、ヨディは親の金でいい暮らしをし、いい車に乗り、いい女と付き合っていて何不自由ない人生を送っているように見えていたかもしれませんが、ヨディにとってそれらは彼の心を満たしてくれるものではありませんでした。

 そしてついにヨディはそれら全てを手放して、実の母のいるフィリピンへ向かいます。

 

レベッカ

 ヨディの養母レベッカは、香港でナイトクラブを経営する独身女性。大人になったヨディを今も養っている彼女は金銭的にはそれなりに裕福な暮らしをしていますが、満足な人生を送っているのかといえば決してそうではなく、ヨディとの関係は愛憎入り交じる複雑なもののようです。

 ヨディの存在がずっと彼女が独身であった理由なのかもしれませんし、平穏で普通な結婚生活を手に入れられなかったからなのか、真っ当な未来を思い描けないような相手(自分のイヤリングを盗むような男)との付き合いに溺れることで、心の中の欠けている何かを埋めようとしているようにも見えます。

 ヨディには実の母のことは決して明かさず、そのことでヨディに恨まれるレベッカ。そして彼女もヨディの存在が自身の幸せの足かせとなっていることで恨めしく感じてもいるように見えます。ですが同時に、ふたりは親子としてお互いに愛し合っており、愛しているけども(愛しているからこそ?)同時に憎くもあり、その感情が執着となって二人はお互いを縛り付け、共依存的な関係となっているようにも思われます。

 でも実はレベッカがヨディを彼の実の母から引き取ったとき、養育費として彼が成人するまで毎月大金を受け取る約束を交わしていたことが最後に判明します。(ヨディの実の母はフィリピンの貴族だった)上海からの移民であるレベッカは、養母としての責任(しかも未婚の独身女性のまま養母となる)と引き換えに、今後の人生はお金の心配から解放される──という大きな大きな安心を手に入れていたのでした。

 レベッカが米国へ旅立つ前日(ミミがやってきた日)のシーンで、綺麗な若い女性の白黒写真が何枚も写真立てに飾られているのが見えますが、これが若き日のレベッカなのだとしら彼女はかなりの美人であったことが伺えます。少なくとも彼女の容姿が未婚であることに関係していないことだけは確かなようです。

 ヨディが地に足のついた生活を送ることなく奔放に生き、頭の中にいつも「脚のない鳥」の話があったのは、上海からの移民である養母、そしてまだ見ぬフィリピン人の実母という、ともに「香港にアイデンティティを持たない女」の子供であるということも関係しているのかもしれません。

登場人物②-1:スーとミミ

 ともに主人公ヨディを愛し、彼を失うことになるスーとミミですが、ふたりの性格や発言、行動は大きく異なっています。

 そんな対照的なスーとミミのどちらもヨディへの愛は本物であり、彼が自分の元を離れたあとも他の男からのアプローチに身を委ねようとしない一途さを持っていました。

 スーについてとくに印象的だったのは、何と言ってもヨディとの出会いから彼を愛するようになるまでの過程です。

 世の女たらしとは真逆の人生を送ってきた平凡な男(笑)である私からすると、さんざん拒否していたスーがヨディのアプローチに文句を言いながらもほだされていき、気付いたらすっかり“ヨディの女”になってしまっていたところは「これぞ女の謎行動」といったところで実に興味深かったです。この辺は理屈で考える男脳的思考では、

 

いやアンタさんざん拒否ってたでしょーが

 

 としか思えない、非常にモヤモヤした展開だからです。

若い頃は女性のこういう心の移り変わり(という表現で正しいのかどうか…)というものが全然納得出来なかったというか、受け入れられなかったというか……。それで今これを書いていて思い出したのですが、若い頃の自分の恋愛に関する意識は

自分が相手を好きだと告げたときに、同じく自分のことを好きになってくれた女性だけが恋愛対象

 

 というものでした。今考えると本当に勿体ないことをしたと思いますが(笑)、ある意味とてもプライドの高い男だったのかもしれません。

 もちろんこれは相手に告る前に、そこへ至るまで二人でそれなりの時間を共有しているので、それを経てから満を持して告白した場合のことです。自分は覚悟を持ってその告白に賭けていたので、それが拒否されたということはつまり自分そのものが相手にとって必要な存在ではなく、その受け入れないという気持ちは不変なものだと解釈していたんですよね。

 だから誰かの馴れ初めなどでたまに聞く

何度も何度もフラれてようやく付き合ってもらえた

 

みたいな話は1ミリも共感できなくて、これは自分がおかしいのか?…などと逆に悩んだりもしました(笑)。今はそんなこだわりはどこにもないのですが。

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