【ウォン・カーウァイ監督作】映画『欲望の翼』①──この1分を忘れない【原題の意味と由来】

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 ウォン・カーウァイ監督の初期の名作『欲望の翼』が3月から配信となったので、1年以上ぶりにNetflixに再加入してレビューを書くことにしたのですが、かなり長くなってしまったので2回に分けました。

 前半では映画の原題の意味と由来について監督が語ったインタビュー記事の紹介と、登場人物についての感想と考察(ヨディと養母レベッカ、そしてスーまで)となります。

 今作では、主人公ヨディの口から印象的な2つのフレーズが語られますが、そのうちのひとつで日本での今作のキャッチコピーにも使われている、

 

1960年4月16日3時1分前、君は僕といた。この1分を忘れない

 

 という気障すぎる(笑)台詞でひとりの女が男を愛することになるところまでを前半としています。

 そして後半では、登場人物についての感想と考察の続き(ミミ、そしてタイドとサブ)と、エンディングで唐突に登場する男(トニー・レオン)の意味やマギー・チャンとトニー・レオンの演技について監督が語っているインタビュー記事の紹介、そしてYouTubeで見つけたウォン・カーウァイ監督についてまとめた面白い動画の紹介などを書きました。

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原題の意味と由来について

 1960年代の香港が舞台の今作は、心の中に大きな欠乏感(一度も見たことのない、どこの何者かも知らない実母の存在)を抱えた、自由奔放に生きる一人の若者と彼を取り巻く男女の物語。

 英語のタイトルは『DAYS OF BEING WILD』で、本国での原題は『阿飛正傳』です。原題のほうは「阿飛(アーフェイ)の伝説」といった意味になるらしいのですが、この原題について数年前にデジタルリマスター版が公開されたときのパンフレットに載っている監督へのインタビュー(1991年に東京国際映画祭で来日した際のインタビューとのこと)で、以下のような説明がされています。

 

パンフレット掲載のインタビューより

(略)『欲望の翼』の原題『阿飛正傳』のタイトルの由来は知ってる? これは実は、ニコラス・レイの『理由なき反抗』の香港での公開タイトルとまったく同じなのさ。「阿飛」という言葉は香港でも『理由なき反抗』の公開によって初めて生まれた言葉だ。その意味するところは何か。「阿飛」とは、あまり仕事もせずに、兄弟親戚づきあいもなく、独立心旺盛で反逆精神に溢れた、そういう生き方をしている人間のこと。『理由なき反抗』の主人公みたいにね。ただそれは、いわゆるチンピラとかヤクザというのとも違う。60年代にはこういう生き方が流行っていて、彼らのことを「阿飛」と呼んだわけだ。でもいまでは香港でも、誰もが「阿飛」という言葉など忘れ去ってしまっている。誰もその意味さえ知らない。60年代という時代。それは香港の急速な経済成長のせいもあって、人々の価値観、人生観が大きく変わった時代だ。それまでの時代では、若者たちは三十代になってもまだ子供扱いで、家庭内で教育を受け、一生平安にすごすことが望みだった。でも60年を境に、外に出ようという意識、反逆意識を持った若者たちが登場してきた。それがつまり「阿飛」。“飛”という字は、家庭から飛び去ること、旧い考えから飛び去っていくことを意味している。

 

 なるほど、この説明を読むと『阿飛正傳』というタイトルが内容にぴったりであることがよく分かりますね。ちなみに英語タイトルの『DAYS OF BEING WILD』も「ワイルドに生きる日々」とか「奔放に生きる日々」といったような意味なので、こちらも原題に沿った意味合いとなっています。

 この原題と英語タイトルは、どちらもヨディのことを表している(と思われる)のに対し、邦題の『欲望の翼』はヨディ以外も含めた登場人物たちの心象をも表しているようにも感じられます。一見原題からも映画の意図するところからもズレた「映画はいいのに邦題が残念な作品」のように見えて実は結構いいタイトルなんじゃないかなと、個人的には思っています。

 そもそも『恋する惑星』っていうのも思いっきり「なんじゃそりゃ」なタイトルなのに何故か割とアリに思えてしまいますしね…。ただしあの映画が前半パートだけだったら全くイミフなタイトルとなったのでしょうけど(笑)。

 

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それぞれが持つ欠乏感や執着

 この『欲望の翼』は、リバイバル上映だったかレンタルだったか忘れましたが20代の頃に一度見ました。ですがその当時は登場人物が抱えている欠乏感だとか、それぞれの執着が導く行動とその心理みたいなものが全然分かっていなかったように思います。雰囲気だけを味わった、といった感じ。。

 ですが数年前に再上映されたデジタルリマスター版と今回の配信を見たことで、ようやく彼らのとった行動の理由だとかそこに至る流れみたいなものが見えてきて、若い頃に見たときよりも一層この作品を面白く感じることができたのでした。

 とくにスーとミミという対照的なふたりの女性の発言や行動には、男にとっては永遠に謎の生き物である「女」という存在を知るうえで大いに参考になるものがあったのですが、それを実生活に活かすには自分はちょっと年を取り過ぎてしまった、というのがいささか残念なところです(笑)。

 

 男っていうのはおそらく、

 

とにかく理屈で判断し、それを重視して行動する生き物

 

 なんだろうと思います。だから「道理に適わないこと」だとか「辻褄が合わないこと」をされるのが大嫌いなんですよね(笑)。

 逆に女っていうのはおそらく、

 

感覚とか感情に重きを置いて行動する生き物

 

 なのではないかと思われます。だから自分の言うことや行動が「道理に適っているかどうか」だとか、自分で言ったことと行動の「辻褄が合うかどうか」などということはたいした問題ではなく、もっとも大事なことは理屈とは関係ないところにあるのでしょう。

 若い頃にはまるで理解できなかった、そういった「女の謎行動」も年を取って色々と経験していくことで理解(あくまで概念としてですが)できてはくるものの、その知識と経験を役立てるにはもう遅い……という。。

 というわけで、今回改めて見直してみて気付いた各キャラクターの行動心理やそれぞれが求めていたもの、そしてその結果──などを個人的な感想のもと、考察していこうと思います。

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