映画『トゥモロー・ワールド』──“神”を見た人々の反応、人が持つ“役割”の違い、宗教的メタファーなど【セオの靴】

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 映画『トゥモロー・ワールド』はアルフォンソ・キュアロン監督が『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』の次に手がけた2006年公開の作品。

 アルフォンソ・キュアロンといえば、一昨年のNetflix配信作『ROMA/ローマ』や2013年の『ゼロ・グラビティ』などで数々の賞を獲得しているほか、母国メキシコの盟友、ギレルモ・デル・トロ監督作の『パンズ・ラビリンス』(こちらも2006年公開作品)や、来月公開となるロバート・ゼメキス監督、アン・ハサウェイ主演の『魔女がいっぱい』では製作に名を連ねるなど(『魔女が~』ではギレルモ・デル・トロも製作・脚本で参加しているようです)今の映画界を代表する監督のひとり。

 今回、監督や出演者などの確認をほとんどせずに映画を見たので、これがアルフォンソ・キュアロン監督の作品だったことも全く意識していなかったのですが、言われてみれば緊張感のある長回しが特徴的な作品だったように思えます。…はい、完全に後出しジャンケンです(笑)。

 

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 とまぁ、そういったどうでもいい蘊蓄は放っといて、ここでは個人的にとにかく強く印象に残った以下の点、

▶︎希望なき世界で“神”を見たときの人々の反応

▶︎誰かのため、未来のために命をかけて道を作り、そして死んでいった人たち

▶︎セオの履物の変化と、様々な宗教的メタファー

 について書いていこうと思います。

希望なき世界で“神”を見る

 いきなり物語の終盤についての話題で恐縮ですが、最初は見ていて思わず息をのんだ凄いシーン、

 

収容所での激しい戦闘の真っただ中で人々が「人類の子供」の姿を見たときの様子
(映画の原題および原作となった小説のタイトルは『Children of Men』=「人類の子供たち」)

 

 についてから。

 この場面に居合わせた人々の感覚を私たちが実感を持って想像するのは難しいことだとは思いますが、少しでもその感覚に近くためにまずは物語の設定から確認していきます。

 

 映画の舞台は18年前にアルゼンチンで最後の子供が生まれて以降、人類が繁殖能力を失ってしまった世界です。

 主人公セオの友人・ジャスパーの家に貼ってあった記事からも読み取れますが、それよりも前から出産率は大幅に減り続けていたようですので、英国の人々が赤ちゃんを生で見たのは18年前よりもさらに前のことなのでしょう。

 ただでさえ汚染や内戦・テロなどで世界が壊滅状態となり、唯一社会を維持している英国も軍隊によって移民を厳しく抑え込み、かろうじて秩序を保っているディストピアな世界です。その中で20年近く全く生まれなかった人類の子供、もう二度と見ることはないと思われていた人間の赤ちゃんが目の前に現れたときの人々の様子は怖いくらいに静かで、そして強烈な光景でした。

 そこは今まさに激しい銃撃戦が行われ、次の瞬間には殺されてしまうかもしれないという極限の状況。そんな中でただ隠れ、逃げまどうだけだった難民たちは突然現れた赤ちゃんに言葉を失い、逃げまどうこともやめ、側へ寄り固唾をのんで見守ります。

 さらにそこへ突入してきた軍人たちも、赤ちゃんの姿を見つけて完全に足が止まります。隊長はすぐさま攻撃を中止させ、皆セオたちのために道を開けます。なかには十字を切って跪く兵士の姿も。

 

これはまさに「“神”をみた人々の反応」に他なりません。

 

 今の今まで殺し合いをしていた屈強な兵士たちが一人残らず銃を持つその手を下ろし、その存在を前にしてただ呆然と見つめることしかできずにいます。なんという圧倒的な説得力でしょうか。

 キーと彼女が抱く赤ちゃんの、その存在だけで全ての者を従えてしまう威厳と崇高さは、聖母マリアと神の子イエスを連想させますし、生きてそこを通り抜けることなど出来そうにない銃撃戦のど真ん中を、全ての武力や暴力が完全に無効化され道が開けてゆく様は、杖を振り上げたモーセの前で海が割れて道ができたという旧約聖書の記述を思わせる奇跡のような光景でした。

 また生命を生み出すことが出来なくなった人類が再び授かった生命が黒人だったということは、最初の人類がアフリカで誕生した(とされている)こととも繋がってくるものがあるのかもしれません。

 残念ながらこの奇跡の存在を直接見ていない(またはそこに居ることを知らない)政府に反旗を翻した側の人々が攻撃してきたために軍隊もそれに応戦することになりますが、この奇跡のような光景を見てしまったあとでは、この崇高なる存在がこんなところで死ぬはずがない、と確信させられます。

 映画では結果的にセオをはじめとする協力者は全員、この奇跡の存在である「人類の子供」とその母親を守るために命を落とすことになりました。それはもちろん悲しいことではありますが、命をかけて守ったものが何であったかを考えると、彼らはいわば「神に仕えその役割を全うした清き者たち」であったのではないか──そのように思えてきます。

皆それぞれの役割を果たして死んでゆく

その役割を全うした──

 この部分に焦点をあてて映画を振り返ってみると、3年前にレビューを書いた大好きな映画『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』にも通ずるものがあるな…と感じました。どちらの作品も

 

誰かのため、または人類の未来のために、それに関わる者たちが命をかけて自らの役割を果たし、そして死んでゆく──

 

 という物語ですが、どうやら私はこういったストーリーの映画ににものすごく弱いみたいです(笑)。

 それは自分自身が主役タイプとは真逆の人間で、そして人前に立って皆を先導できるような人間でもないからかもしれませんし、十代の頃から「この世に生まれた意味」とか「現世で為すべき目的・役割とは何なのか」といったようなことをよく考えていたからかもしれません。

 

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 『ローグ・ワン~』と違って、この『トゥモロー・ワールド』で自らの役割を果たして死んでいった者たちは、ほとんどがそこまでの覚悟をはじめから持っていたわけではなく、また自分がここで死ぬことになるとは思っていない人ばかりでした(というか死ぬ描写がない人もいますし)。

 セオの元妻・ジュリアンはおそらく反政府グループ「フィッシュ」のリーダーとして活動している時点ですでに覚悟を持って生きていたのでしょうが、それでもまさかあそこで命を落とすとは思っていなかったでしょう。

 そう考えると、窮地に立たされる前に自らの使命・役割を知って、死を覚悟して行動したのはジャスパーだけだったように思えます。

 

 映画の舞台は、子供が生まれなくなって18年が過ぎ、世界中が様々な要因から壊滅状態になるなかで英国だけが唯一厳しい入国制限のもと、何とか文明社会を維持しているという近未来・2027年のディストピアな世界。

 

 人々が人生に、そして未来に希望を見出せなくなって政府が自殺薬を与えるような世界ではありますが、それでも主人公セオをはじめ皆がそれぞれ何とかかんとか生きていて、たとえ希望はなくても少なくとも今はまだ死ぬつもりはありません。収容所でひどい暮らしをしているマリカでさえも、大切にしている犬がいます。

 そんな彼らが、自分以外の誰か(しかもこの場合は他人)──のために命を捧げる覚悟で「道」を作っていくことになります。それがどれほど勇気のいることか……ジュリアンを除けば皆が命の危険に曝されて生きているわけではなかっただけに、その勇気ある行動がとてつもなく偉大なもののように感じられます。

 もしも分がそういった運命の中に放り込まれたら、はたして彼らと同じことが出来るだろうか…いざというときに逃げずに立ち向かうことが出来るだろうか。。全く自信はないけれど、それが出来る人間であってほしいと自分を信じたいところです。

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