環境・言語・貧富の程度に差はあれど、人の営みはそう変わらない
公開される映画にはどれもキャッチコピーがついていますが、今作『火の山のマリア』のキャッチは次のようなものでした。
グアテマラ、火山のふもとに暮らすマヤ人のマリア。
自らの運命にあらがう魂は、やがて新たな生命をはぐくみ、聖なる大地に祈りを捧げる──。
それは、太古の記憶を呼び覚ます、大いなる「生」の物語。
うぅむ…。
もちろん映画のプロモーションとしては、こういったキャッチコピーのほうが壮大で心に訴えるものがあるように思えるのでしょうから否定も批判もするつもりはありません。
ですが、実際にこれを見た皆さんはこのキャッチコピーから連想するような内容だったと感じたでしょうか?
自らの運命にあらがう魂?
太古の記憶を呼び覚ます?
私がこの映画を見て感じたことは
「人間というものは結局、どのような環境で生まれ育ったとしてもその営みは根本的には変わらない」
というものでした。
性に対する若者の関心、大人の性欲、盲目的な富める国への憧れ、“大いなるもの”への畏怖の念と、それを飯の種にする人たちのいい加減さ、男の狡さ、我が子への愛、差別、社会と制度の矛盾、生き物の命について、などなど。
日本も含めてどこの国でも、先進国だろうが後進国だろうが、都会でも田舎でも、それが現代の話でも昔のことでも、常に当たり前のように存在することばかりだな、という印象を持ちました。
公用語も話されない山の中の農村地帯でも、男は酒場で酒を飲んで下品な話をするし、おばさんは娘が横で寝ていても旦那とおっぱじめる。種付けするために小屋へ入れた豚の発情を促すためにラム酒を飲ませたり、アメリカまで行く現実的・具体的な方法や自分の国の地理についてもろくに知らないのに「そんな考えだからこの国はダメなんだ」と偉そうに語るろくでなし男。自称「誠実な男」は嘘をつき、自身の今後のために妻となる女の赤ちゃんを秘密裏に売ってしまう。自分たちが生活できなくなるかもしれないということよりも、娘と娘の赤ちゃんのことを何より大事にする母親の愛。
立派な社会制度があっても、それを正しく使うことができない矛盾(言葉が通じず肝心の弱者がその制度の存在を知らない、そしてその問題をだれも解決しようとしていない)や、抜け出せることのなさそうな貧困の連鎖といったことも考えさせられるものがありましたが、これを見た世界中の人々(ベルリン国際映画祭で銀熊賞、アカデミー賞・外国語映画賞にノミネート)と同様に、私たちのほとんどは単なるひとりの鑑賞者としてそれを「見る」だけです。それもまた人間、というものなのでしょう。
「国のあだ名」ってご存知ですか?
世界中の国には、あだ名を持つ国が数多くあります。例えばタイは「微笑みの国」、メキシコだと「太陽の国」といった感じで。
以前私がグアテマラの先生とのレッスンでこれについて調べたとき、イタリアのあだ名が「ブーツ」と書いてあって笑ったのを覚えています。いや、もちろん分かるんだけどもうちょっとカッコいい言い方とかないの?っていう(笑)。
日本はというと、歴史でも習うかの有名な「日出づる国」がそれにあたります。なんて格好いいんでしょうか。ちょっと話がそれますが、昔大相撲の海外巡業の際、当時の横綱・曙関の英語でのしこ名が「Rising Sun」となっていて「おおっ」と思いました(笑)。
「日出づる国」をスペイン語で書くと
「El país del sol naciente(エル・パイス・デル・ソル・ナシエンテ)」。
そのものズバリ「日が昇る国」です。
そして今作の舞台となったグアテマラは、このようなあだ名を持っています。
「El país de la eterna primavera(エル・パイス・デ・ラ・エテルナ・プリマベーラ)」。
意味は「永遠の春の国」または「常春の国」です。このあだ名を先生から聞いたときには、この美しい言葉の響きに感動して思わず拍手したものです。
これ以上グアテマラに火山の被害が出ないことと、一日も早い現地の復興を、心よりお祈りしております。
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