三崎町三丁目通信

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Pola X

【レオス・カラックス】映画『ポーラX』──公開から20年。②原作・関連書籍も絡めて振り返る【本棚通信⑧】

投稿日:2019年11月17日

 レビュー第1回目はこちらです。↓

 

 レオス・カラックス監督作『ポーラX』のレビュー第2回目は、関連書籍の中でもイザベルに焦点を当ててその人物像を振り返ってみます。

 カラックス監督はイザベルという女性にどのようなイメージ像を持たせていたのか、そしてそれを演じたカテリーナ・ゴルベワは、イザベルというキャラクターをどのような女性と受け止め、表現していたのか──などについて、いくつかの引用を元に紹介していきます。

 

 

『ポーラX』と『ピエール』におけるイザベル像の違い

 第1回目のレビューでエンディングは映画と小説とで異なると書きましたが、それ以外の非常に重要な原作との相違点として

 

「イザベルの容姿」

 

 という点も挙げられます。

 原作のイザベルは射干玉のような湯浴みされた長い黒髪と黒い瞳、オリーブのような肌を持ち、グラマラスで神秘的な美しさをもった女性として描かれており、その美しさから周りの女性たちにやっかみや謂れのない悪口を言われたりもしています。

 小説では金髪・碧眼に白い肌のルーシーを「尊き天使(みつかい)」そしてルーシーと対をなすような黒髪に黒い瞳、浅黒い肌のイザベルを「悪しき天使(みつかい)」と表現しています。

 それに対して映画『ポーラX』でカラックスが求めたイザベルのイメージは

 

「傷付き、追いつめられた獣」

 

 であったといいます。『ポーラX』のイザベルは

 

「戦争の苦しい体験をしますし、大変な苦労の果てにこのような行動をした──」

(雑誌『STUDIO VOICE』1999年11月号「ポーラX特集」カテリーナ・ゴルベワのインタビューより)

 

 という人物設定をリアルなものにするために、原作のイザベルとは異なるイメージを持たせたのだそうです。

 同『STUDIO VOICE』1999年11月号のカラックス監督のインタビューの中には次のような一節もあります。

 

──イザベルは、森の中でのモノローグによってアイデンティティをはっきりとさせてゆきますが、これは次第に髪が覆っていた彼女の顔が露になってゆくことと同じ意味を持っていますか?

それは、つまりピエールが暗闇に慣れていくということなのです。それから彼はいつも彼女の後ろにいる。だから、観客が彼女の顔を見る時にも、彼には見えていない。最後に彼らが向き合う時でさえ、彼女は俯いてしまうので、髪の毛のせいで顔は見えません。小説では、イザベルの髪の毛というのは殆ど魔法のようなもので。もっと豊かで、魔女的な時もあればエロティックな時もあるのです。

 

 この発言を読んでも『ポーラX』のイザベルは、小説のイザベルのように

 

“抗えないほどの「女」としての魅力”も加味されたうえで、ピエールにあのような決断をさせた──

 

という人物像だったわけではなくて、純粋に(?)彼の心の深いところに存在し燻っていた何か=「この世を超えるきっかけ」=ピエールにとって大きなタブーであると共に“奥底に隠されていたもうひとつの自分”というものをイザベルに見出した──ということが強調されているように感じ取れます。

 

 レオス・カラックスは『汚れた血』では

 

「とにかくジュリエット・ビノシュをきれいに撮ることを主軸に絵作りを考えた」

(『ポンヌフの恋人』パンフレットより)

 

 とのことですが、それとは対照的なアプローチですね。

 

 そのジュリエット・ビノシュは『ポンヌフの恋人』では一転してホームレスとして描かれましたが、ホームレス(そして片目)となる以前と、目が治って元の生活に戻った奇麗なミシェル(ビノシュ)もちゃんと描かれていました。そしてそのどちらのミシェルも、結局は魅力的に映っていたのでした。

 

 かたや今作のヒロインであるイザベルは、最後まで若い女性としての(外見を飾るという意味での)美しさを表現されることはありませんでしたが、逆にそういった飾られた外見や身分、金銭的な豊かさといった「取り繕うことができる外的要素」を完全に排除された姿で描くことで、イザベル(=カテリーナ・ゴルベワ)の根源的な美しさが表れていたように思いました。

(イザベル原理主義者としての個人的感想としてお読みくださいw)

 

 とはいえ、ピエールとイザベルがセックスをした場面のスチール写真を見ると、仰向けに寝ているイザベルの胸にピエールが顔を乗せている写真や、ピエールの上に覆い被さるイザベルの髪でピエールの顔が完全に隠れている写真などは、イザベルの長い黒髪の美しさは十分に表現されていました。

 

雑誌『Cut』ポーラX特集号と雑誌『STUDIO VOICE』レオス・カラックス特集号、そしてシナリオ付き写真集

 

カテリーナ・ゴルベワのインタビューでの発言

 主演の二人のインタビューを読むと、ピエール役のギョーム・ドパルデューとカテリーナ・ゴルベワとではインタビューに対する答え方・向き合い方に大きな違いがみられます。

 一人の役者として、あくまでも役としてピエールという男を演じ、俳優ギョーム・ドパルデューという自分自身とは距離を保って見ている印象のギョームに対し、カテリーナ・ゴルベワはイザベルという、とても重いものを背負って生きてきた強くて儚げな「傷付き、追いつめられた獣」という役を覚悟を持って受け入れ、原作でも映画でも「ピエールの姉としての存在」が曖昧なイザベルという女性の全てを信じ、彼女そのものとなって演じていたことが感じられました。そのため、インタビューへの回答もどれも非常に真面目なものとなっているのが印象的です。

 例えば、『STUDIO VOICE』1999年11月号のインタビューで、イザベルという人物について次のように答えています。

 

──ちょっと質問が変わるんですけど、あなたは映画の中でイザベルを演じていますが、イザベルは自分の言っていることを信じていると思いますか?

もちろん信じていると思います。そうじゃなかったらイザベルはそういったことを言わなかったと思います。イザベルは話さずにはいられないから話していると思うのです。

──イザベルという人はすごく不安げに見えるんですね。自分の信じていることをしているにもかかわらずすごく不安げなんですね。

メルヴィルの原作でも真実かどうかということは最後までわからない。それからレオスもこれが本当なのかどうなのか自信がない。私たちはこれが真実であるという前提で演技をしながら映画でも最後まで真実かどうかわからないという感じで演技をしました。基本的に「こうだからこう」というふうに構築していけば、それは真実となりうるし説得力もありますが、まったく理論的でない場合はいくら「私は正しいんだ。信じていくれ」と言ってもかえって強く不信感を抱かれるということがあります。だからそのような疑問がわいてくるんだと思います。

 

 さらに続けてこのようなことも語っています。ちなみにこれと同様の発言は『Cut』1999年10月号のインタビューでもしています。

 

──イザベルの言っていることをピエールが100%信じていればピエールのほうにも不安はなく、それが真実じゃないと思うが故に彼はセックスするんじゃないでしょうか。

映画の中でのセックスが近親相姦だとは私は思っていません。ピエールが大変苦しんでいて、助けてあげなければいけないという時に、女性の本能として最後のものをピエールに捧げなければいけないと思って彼女はセックスをしたんだと思います。もしイザベルがお城を持っていたり、お金をたくさん持っていたりしたら、ピエールにそれを与えたでしょう。イザベルというのは元々家もなくて難民で、非常に物質的に恵まれていないものですから、物質的に満たされているということが理解できないんです。そしてピエールが物質的なものをすべて失ったがために苦しんでいる状態がよく理解できないんです。その苦しみを精神的なことで補おうという衝動によって彼に自分を与えたと思っています。イザベルは心で生きている人間でモラルは彼女とは違う次元にあるんです。

 

 またカテリーナさんは1回目の自殺のシーン(川へ飛び込むシーン)のあと、ひどい鬱状態に陥ってしまい、翌朝には髪が真っ白になってしまったそうです。

 

──一回目の自殺のシーンのあとで落ちこんで、翌朝には髪が真っ白になってしまったというのは本当なんですか。

「ええ、本当よ。でも、精神的苦痛を感じていたというわけではなかったわ。精神的衝撃のようなものは感じてなかったの。ただ、心臓だけが恐ろしく痛かった……手を上にあげることすらできなくって……。それでクレール(※)の主治医に看てもらったんだけど、医者は、これはまったく正常なことだ。あなたの心臓には何の異常もない、と言ったわ。あのシーンから戻ってきた反動に過ぎない、ってね」

(『Cut』1999年10月号より)

※カテリーナ・ゴルベワが出演した『パリ、18区、夜。』の監督であるクレール・ドゥニ(女性)

 

 さらにパンフレットに掲載されているインタビューではこうも言っています。

 

──あの自殺をどう考えますか? イザベルは真実を恐れたのか、ピエールを失うことを恐れたのか?

彼女が真実を言ったかどうかは重要じゃありません。ピエールは彼女の弟ではないのかもしれない。でも彼を見たとき、弟だと思ったのです。大事なのは彼女が感じたことであり実際にあったこと、彼女が一人の男を本当に愛し、それがピエールだったということなのです。それが彼女の人生だった。最初に自殺しようとしたのは、自分のせいでピエールが溺れそうになっていると気づいたからです。彼女が幸せを感じ始めた瞬間に、あらゆるカタストロフ、あらゆる戦争が彼女の回りでまた勃発する。それは自分のせいだと彼女は考える。ピエールこそ彼女の人生の意味だった。その彼を溺死させそうだとしたら、もはや生きていることができない。悪事を働いても何の罪意識もない人たちもいれば、自分では何も悪事をしていないのに悪事を働く人に罪意識を感じる人たちもいるのです。

 

 この発言と絡めてまた『STUDIO VOICE』1999年11月号のインタビューから引用すると、彼女はこのようなことも言っていたりします。

 

(略)例えば子猫には大変同情はするんだけれども、ボロを着た子供が街で放たらかしになっていてもまったく関心を示さない、そういう現状に私は共感できません。私が映画の勉強をしている時に多くの人々が社会現象に対してそのように反応するということに疑問を抱いていました。それで私は二種類の人を知っていましたし、見てもいました。つまり感情に訴えて喚く人、そうするとどこからか助けがくる。そしてもう一方では自分の運命を受け入れて泣きわめくことなく死を受け入れてゆく人達。私は黙って死を迎えた人に大変共感を覚えます。

 

 こういうのを読むとカテリーナさんのイザベル役は、なるべくしてなったという感じがしますね。それにしても最後の部分はカテリーナさんがもうこの世にいないこと、そしてその死因がオフィシャルには明らかにされていないことを考えるとなんだか切なくなります。

 

 

森の中での独白シーンについて

 小説『ピエール』での、イザベルとピエールが最初に遭遇する夜→その後ピエールに届けられたイザベルからの手紙→そしてついに二人が対面し、謎の女イザベル・バンフォードの数十ページの長きにわたる独白──までの流れは、この小説のなかで最も高揚感を味わうことができるパートです。

 小説全体では序盤から中盤に差し掛かるあたりなのですが、ここが物語のクライマックスと言ってもいいでしょう。

 映画『ポーラX』で最も気持ちが高ぶる場面はといえば、やはりあの森の中でのイザベルの独白シーンです。拙いフランス語で絞り出すように語る彼女の悲しい生い立ちと、ようやく最後に二人が向き合ったときのイザベルの言葉は、原作同様、深く心に訴えてくるものがあります。

 そんな最重要シーンとも言うべき森の中での独白ですが、この場面について同『STUDIO VOICE』1999年11月号の、映画では助監督としてクレジットされているエリー・ポワカール(誌面での肩書きは「伴奏者、もしくは共犯者」、カラックスの長年の友人)のインタビューのなかで興味深い内容が語られていました。

 

──森の中でのイザベルの長いモノローグについてはどうだったんですか? 映画でも小説でも特徴的なシークエンスですが。

ああ、あれね。もうその長さは、長大でしたね。最終的にシナリオが出来上がった後、ゴルベワ用にロシア語に訳したんですよ。彼女自身がそれを読みながら、彼女なりにフランス語に訳していったのです。アクセントも含め、くだけだ言葉で。それを録音したら25分になっちゃったんですよ。僕がそれを書き写したんだけど、終わったら25分。驚きましたね。見積もっていたのは9~10分くらいでしたから。そのシーンの撮影自体の長さは、しめて13~15分でしたね。フィルムの一巻きが10分ですから、途中一度止めざるを得ないし。それを最終的に編集で8分にしました。削ったところもありますし、彼女自身がイントネーションを摑んだり、言葉を見つけたりしたことで、短く、わかりやすくなってもいった。そのテキストを元に、僕が修正を加えて書き換えていったのです。

──…ということは、アクセントだけではなく、彼女自身の解釈も入ってくる訳ですね。

ええ。イザベルは東欧から来たという設定でしたし、彼女が彼女の知っている言葉で、懸命に人生を語ろうとしているというシーンでしたから。彼女のテキストというのは、彼女自身の言葉、表現で書かれたものです。テキストの神髄は同じだと思います。

 

 

私の人生……知ってほしい。

どうやって始まったか。何も覚えていない。

父はいたか? 母は? いいえ。

いつも一人、たった一人……。

 

 

 このようにして始まるイザベルの言葉が、ロシア人であるカテリーナ・ゴルベワさんのアイデンティティも活かされていて、またこの役を表現するために「イザベルという女性」を彼女自身の中に取り込み、そこから出てきた「彼女自身のフィルターを通した言葉」であった、というのはとても興味深いものがあります。こういう話が読めるのが特集号のよいところですね。

 

 

“アレックス三部作”との違い

 『ポンヌフの恋人』から8年が過ぎ、自身の分身とでも言うべきアレックスの物語を終え(レオス・カラックスの本名はアレックス・デュポン)それまでとは違う新たな物語をこの『ポーラX』で描くことになったわけですが、結局はこの『ポーラX』もまた、カラックス自身の中に昔からあった大切な一部分を映画にしたものであった──というところが、私がこの映画を“アレックス三部作”と同じように、というかそれ以上に好きな理由のひとつなのかもしれません。

 

 先にも書いたように、『ポーラX』は原作となった小説にかなり忠実に作られた映画ではあるものの、主人公ピエールの独特の堕ちてゆくさまであったり、イザベル、そしてイザベルと出会ってからのピエールの、この世界との決定的な不調和みたいなものは「レオス・カラックスの映画そのもの」といった印象を受けます。

 

 ですがやはり『ポーラX』と“アレックス三部作”との違いは至るところに存在します。

 

いくつかの文献から引用すると、

 

(略)~ このふたりの関係の曖昧さ、謎めいた関係は、ピエールではなくイザベルの存在からきている。イザベルは光のなかにいるピエールの背後から現れ、漆黒の森の闇のなかでピエールと出会う。不思議なことだが、『ポーラX』にもレオス・カラックスのほかの作品と同じように夜のシーンが多く見られるが、ここでは夜の世界よりも闇のイメージが強く印象づけられる。おそらくその最大の理由は、イザベルの黒髪やくすんだ服装とともに、イザベルがピエールと出会う森の闇がつきまとうためかもしれない。それほど光の世界とは対照的な闇がイザベルにつきまとい、彼女の謎めいた存在を強めている。そして、それが『ポーラX』全体を覆っているのである。

 もっともこの闇から由来する謎めいた雰囲気は『汚れた血』のように映画のジャンルとしての探偵ものに漂う雰囲気とは決して同じものではない。むしろそれはこれまでのレオス・カラックスの作品には決して見られなかった宗教的な香りがする。実際、この『ポーラX』においてピエールとイザベルを中心とする人間関係で最も重要なセリフとして語られるのは、「信じること」という言葉である。この「信じること」は、ほかの理由が入る余地など決してない、それだけで充足する言葉である。そのため、あらゆる宗教心の根拠となりうる唯一の言葉でもある。その言葉をピエールは堕ちていくなかで何度も口にするのだ。

(『ポーラX』パンフレットより)

 

──以前のアレックスたちは助走する場として、夜のストリートや、工事中の橋や、地下鉄の街路などが与えられていましたが、ピエールには助走は用意されず、替わりにひたすら階段を昇ったり降りたりを強いられます。この助走の無さゆえに視界が遮られてゆくのでしょうか?

そういえば、こんなに階段を登場させるのははじめてですね。シャトーにも鉄の階段と自我の階段がありましたし。その時は気づかなかったけれど、これら三つの階段(シャトー、ホテル、倉庫)を撮るのは楽しかった。ギョームが階段を駆けているのを撮るのが好きだったのかも。確かにピエールはいつも階段を登っていますね。

──歩道橋もありますよ。

そう、変わったことについて言えば、以前の作品は出会いから映画が始まっていて、今回は出会い以前の生を見せているということがあります。それから、ピエールは両親の姿が見える最初の登場人物ですね。以前は想像させたり、孤児かもしれないと暗示するだけだったけれど。それから、ピエールとイザベルの間には距離が全くありません。以前は距離が存在し、アレックスは女たちに辿り着かなければいけませんでした。でも『ポーラX』では、女性は彼自身の中にいる。それが真の意味での近親相姦なのです。ピエールは決してイザベルに向かって走りません。

(『STUDIO VOICE』1999年11月号より)

 

 なるほど……たしかにアレックスはいつも愛する女に向かって自分が辿り着こうとしていたけど、ピエールはイザベルに向かって走ることはありませんでした。

 またアレックスは愛する女に向かっていった結果、それぞれ何かを間違えてしまいますが(抱きしめる瞬間を誤る、愛する女そのものを見間違える、女を想って取った行動が完全に間違い、など)、ピエールは愛する女のためではなく、自分の中にある何かのために大きな決断をして人生を変えていきますが、その行動のどれもが裏目に出てしまい、自分と周りの全てを傷付けていってしまいます。(動物園で女の子へかけた言葉も含めて)

 

 というわけで『ポーラX』を関連書籍などから振り返る、レビューの前半は以上となります。

 第3・4回目の感想編(イザベル擁護の立場からw)も宜しければぜひどうぞ。

 

 

 

 

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三崎町三丁目通信

三崎町三丁目通信の主筆・Kです(個人運営ですが)。映画の感想を中心に、趣味で続けているスペイン語学習(DELE A2取得で止まっています)と最近始めた英語学習のことなどを書いています。本業はフリーランスのグラフィック&エディトリアルデザイナー。びっくりするくらい将棋が弱いです。

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