【ルイス・ブニュエル監督作】映画『砂漠のシモン』──善人も悪人も苦行者も悪魔も、皆それぞれの形で神を信じている

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 ひとつ前の『ビリディアナ』のレビューでも書きましたが、今年の夏にシネフィルWOWOW(また名前が変わったらしく今はWOWOWプラス)でルイス・ブニュエル監督のメキシコ時代の3作『ビリディアナ』『皆殺しの天使』『砂漠のシモン』が放送されました。

 

【ルイス・ブニュエル監督作】映画『ビリディアナ』──人間の身勝手さや罪深さにうんざりさせられる
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 とりあえず録画しておいたもののなかなか腰が上がらず、ようやく先日『ビリディアナ』と『砂漠のシモン』を鑑賞することとなりました。(『皆殺しの天使』はこの3作の特集上映の際に映画館で見ました)

 

【ルイス・ブニュエル監督作】映画『皆殺しの天使』(ネタバレ)──名前から考察してみたり
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 『ビリディアナ』も良かったのですが、個人的にはこの『砂漠のシモン』のほうが俄然面白かったです。

 「面白かった」とはいえ、こちらも『ビリディアナ』と同様に人間の身勝手さや罪深さにうんざりさせられるというか(でも自分もその愚かな人間のひとりなのでしょうけど)失望させられるような、そんな作品でした。

 

 この3作にはメキシコ人女優のシルビア・ピナルがそれぞれ重要な役柄で登場していますが、『皆殺しの天使』では北欧神話で「戦場で生きる者と死ぬものを定める女性」とされる“ワルキューレ”というあだ名(内容的にも意味深なあだ名)を持つ若い女性役を、そして『ビリディアナ』では主人公の修道女ビリディアナを演じ、この『砂漠のシモン』では一転して主人公シモンを誘惑する悪魔の役で出演しています。

 映画の長さが短いということもダレずに集中して見ることが出来た要因のひとつでもありましたが、これについてパンフレットに書いてある情報によれば

 

本作は資金難により撮影途中で製作が頓挫し、撮り終えた素材のみで中編映画として作り上げられた作品だと云われている(作家本人がそのように証言している)。しかしピナルによれば、その通説は事実ではないとのこと。もともと本作は三人の監督が参加する全三話のオムニバス映画として構想されていた。『砂漠のシモン』はその一挿話だったという。

 

 だそうです。まぁどちらの話が本当だとしても、結果的にあの短めの上映時間が良かったことに変わりはありませんが。。

 

© 1961 – Unión Industrial Cinematográfica (UNINCI)

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神への道も人任せ

 主人公のシモンは、6年と6週と6日間ずっと塔の上に立ち続けてきた苦行者。

 横になるスペースもない、狭い塔の上で神への赦しを乞うべく祈り続けてきたシモンの前に、聖職者や農民たちが集まってくる。その目的は金持ちが資金を出して設置した更に高い塔へシモンを移すのを見るためで、集まった人々は自身の罪深さを戒めることはせず、シモンにその罪滅ぼしを「お任せ」してもらおうとする人ばかり。

 地上に降りたシモンに人々が群がる中、二人の女性がシモンの足元に身をかがめる。ひとりの女性はシモンの足に口づけをする(イエスの足を自身の涙でぬらし、髪の毛で拭いたあとその足に口づけし香油を塗ったとされる「罪深い女」のように)が、もうひとりの女性(老婆と思われる)はお守りにでもするつもりなのか、シモンの着ているぼろきれの裾をちぎって去っていく

 新しい塔に登ったシモンに、盗みを働いたことで両手を手首の上から切り落とされた男とその妻が救いを求める。それを聞いたシモンが祈りを捧げると奇跡が起こり、失った両手が元に戻る。だが当の本人はそれがさも当然のことであるかのようにふてぶてしく笑い、感謝の言葉もなくさっさと帰ってしまう。しかもその帰り道、蘇った手で娘の頭を叩くのであった。

 そして奇跡を目にした他の人々も、まるで何事もなかったかのように帰ってゆく。2人組の男のうちの一人は神への信仰はおろか、たったいま目にした奇跡よりも横にいる男がパンを持っているかどうかに関心を寄せている。さらには聖職者たちでさえも「奇跡を見てて長居してしまった。もう行こう」などと言う始末。

 この冒頭部分だけで(シモンの足に口づけした女性以外の)人間の身勝手さや厚かましさ、愚かさを十二分に見せつけられてうんざりさせられるのですが(笑)、ではそれら全ての人々の罪を背負って祈り続けるシモンははたして正しいのか──というと、どうもそうとも言い切れないものがあるように思えます。

 余生は息子の側で送りたいと駆けつけた母親に対し「神への愛に比べたら親子の愛など取るに足らないもの」とでも言わんばかりにぞんざいに扱うシモンは、神への愛や信仰というものに没入するあまり、最も身近に存在する“無償の愛”、すなわち「母から子供への愛」が見えていません

 そんなシモンの前に、悪魔が度々その姿を変えて誘惑しにやってきます

 

悪魔の誘惑

 シルビア・ピナル扮する悪魔が何度かその姿を変えてシモンの前に現れ、彼を誘惑し塔から降ろそうとします。直接シモンに語りかけるのは3回(一度目は無垢な少女として、二度目はイエス・キリストを思わせる男として、そして三回目は棺桶に入ってやってきたトガを着た美しい大人の女性として)ですが、実は新しい塔に登った日に、水瓶を肩に担いだ美しい尼僧のような女性として雷鳴(空は晴れている)とともにシモンの前にやってきています。

© 1961 – Unión Industrial Cinematográfica (UNINCI)

 

 最初に見たときはこの女性が悪魔としてなのか、それとも同じ顔をしたただの女性なのか判別できませんでしたが、2回目に見たときに彼女の手が長い爪に獣のような毛むくじゃらの(ように見える)腕をしていることに気付いて、彼女も悪魔だったことを知りました。

 そして三回目に悪魔がやってきたとき、核心を突くような言葉をシモンに投げかけます。

 

あんたは驚くだろうが、私たちは同類なの
私もあんたと同様に神を信じてる
神の世を楽しんでるわ

 

 これはなかなか深いというか、「決して認めたくはないけども、真理なのかもしれない──」という意味深なセリフです。

 たしかに、欲深い人間も苦行者シモンも、そして悪魔でさえも、この世界のすべてを作った全知全能の神によって生み出されたものであるならば、ある意味ではここに存在するものとして同類であると言えるでしょう。突き詰めて考えれば善悪の違いというものも本当に「正しい」判断による区別なのかどうかもわかりませんし…。

 また神様が作った世界で存在しているという時点で絶対にその世界を越えて神様以上の存在になることはできないので、皆この「神の世」で生かされているということになりますし、悪魔も「神という存在があるから自分がその対極にある“悪魔”であると自覚できる」のでしょうから、そういう意味では悪魔も神という存在は信じているでしょう。(従うという意味ではなくて「その存在の有無」を信じているという意味で)

 自称「無神論者」のルイス・ブニュエル監督ですが、キリスト教(カトリック)の教えと現実の世界との矛盾や乖離加減(聖職者たちの腐敗や人間という生き物のあまりの欲深さ・罪深さみたいなもの)にほとほと嫌気がさして無神論者になったのかもしれませんが(勝手な予想です)、それを「神」と呼ぶかどうかは別として「大いなるものの存在」についてはもしかしたら否定していなかったのではないか──そんなことを考えてしまいます。なぜならそういうものすら信じない・関心が全くないという人からはこんなセリフは考えつかないように思えるからです。

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