この映画に込められているものとは
たとえ血が繋がっていなくても、人種や階級による格差があったとしても、たしかにそこに存在する「愛」と、そしてメキシコをはじめとする多くの(もしくは全ての)国で、社会的格差に直面している女性や貧しい労働者たちへの尊厳と敬意を、監督はこの映画に込めたのではないでしょうか。
ギレルモ・デル・トロ監督がツイッターでリンクを貼っていた、本作のレビュー記事が参考になりましたので一部分を要約しつつ自分の解釈も加えて少しだけ紹介したいと思います。
私のスペイン語レベルが低いこともあり、自然な日本語に出来ない箇所や、説明が分かりづらい箇所に自分の言葉を付け加えております。
https://ponpausa.com/2018/12/18/roma-la-purificacion-de-alfonso-cuaron/— Guillermo del Toro (@RealGDT) 2018年12月19日
『ROMA/ローマ』は、「浄化・清め」の物語とも言える作品です。
オープニングからしばしば「水」が印象的に登場します。家族が、主に主人公のクレオが直面する様々なプロセスにおいて「水」は半ば宗教的な意味合いを持つ、ひとつの象徴として使われています。
クレオが初めて男性と関係を持ち、そして妊娠した日は雨が降っており、あたかも何かが起こることへの警告のようでもあります。その後にシャワーを浴びているシーンでは、(宗教的な意味で)重大な“罪”を犯したことにより、その汚れを洗い流しているようでもあります。
またソフィアに妊娠したことを告げた日は、雨ではなく雹(ひょう)が降っていました。それはクレオの不安な気持ちや今後に対する怖れのようなものを表しているかのようです。
そしてもちろん終盤のシークエンス、泳げないクレオが子どもたちを救うために大西洋の荒波の中を通ってゆく場面は、クレオだけでなく家族全員が生まれ変わるための“浄化”や”清め”のメタファーのようでもあります。
同監督による『ゼロ・グラビティ』のラストで、絶体絶命の状況から生還したサンドラ・ブロックが水中から浮上するシーンと、そこから地上に辿り着き、まだ地球の重力に身体が対応していないため這いつくばりながらも一歩また一歩と前へ進み、そしてついに自分の足で立ち上がるあのシーンも、同じように苦難を乗り越えて生まれ変わるというメタファーのようです。
『ROMA/ローマ』の場合も、この“浄化の沐浴”を経て家族が家に戻ると、夫が家具を持ち出して家の中も様変わりしており、あたかも家族が生まれ変わってまた新たに始めからやり直していくかのような光景が見られます。
ラストでクレオが屋上への階段(屋上のシーンや階段の下のスペースはその前にも描写がありましたが、この階段があんなに高く開放的なものだと私たちが知るのはこのエンディングでのシーンが初めてです)を昇っていくシーンは、彼女が新しい人生へ向かってゆくステップを表しているかのようです。感情がこみ上げるような大袈裟な演出ではありませんが、希望を感じさせる理に適ったシーンです。
先にも書いたように、『ROMA/ローマ』というタイトルは逆から読むと『AMOR=愛』になりますが、「愛」は母親からだけではなく、“母親代わりの存在”や友達、何でも打ち明けられる相手、いつもそばいにいる家事労働者といったような、たとえ血の繋がりはなくても、より強くて大切な結び付きをもつ「家族」によって与えられるものである、ということをこの映画は伝えようとしているのではないでしょうか。
この映画の主人公「クレオ」は、彼女のことだけではなく、他の多くの人たち──家の外観を保つために働く庭師、私たちが日々食べるものを作るため日の出から日没まで働く農業従事者、レストランで給仕するウェイトレス、それはメキシコ、アメリカ、どこにでも存在する人たち──『ROMA/ローマ』は、大きな改善を期待することなくとも最善を尽くして生きている、それら全ての人たちに向けた監督からの「尊厳と尊敬、賞賛の宣言」であるのです。
そして結局のところこの映画は、監督がかつて暮らした古典的で古き良き思い出の場所と、彼の人生の中にいた女性たちのみならず、全ての人々に向けられた愛の手紙(una carta de AMOR)なのです。
comment