矛盾点はあったのか
過去や未来を行き来する映画には良作が多数ありますが、どの作品も何だかんだで(大なり小なり)どこかに矛盾点が出てきてしまうのに対し、今作にはほとんどそういった点は見られなかったように思えました。
ですが何度か見てみるとやはりここにも「あれ?」と思う箇所が……。それは最後に空港で男を撃った追跡者の存在です。
時空を越える能力は誰にでもあるわけではなく、かなりの苦痛とリスクを伴うので主人公の「男」以外成功したものはいないという設定だったような……
まぁ物語の時間軸としては、男が未来へ行った後のことなので、もしかしたら人類を救う未来のエネルギーの他にタイムトラベルについても未来人から何か得たものがあるのかもしれませんし、そうじゃなくても男が安全なタイムトラベルの方法を確立させたから、という解釈(過去へ行くよりも未来のほうが難しいが、それも成功させたということは過去へ行くことは以前より難易度が下がっていたとか?)もギリギリ出来ないわけではありませんが、それもちょっと苦しいような気がします。どうなんでしょうか。
最大の特殊効果は見る者の想像力
タイムリープ系の映画ではあるものの特撮映像を駆使しているというわけではなく、それどころかほぼ全てが静止画で構成された紙芝居の映画版とでもいったような作風のこの『ラ・ジュテ』。
監督のクリス・マイケルのWikipediaを見ると、今作品は普通に撮影したフィルムをストップモーション処理して静止画としたものを組み合わせて作られた──といったようなことが書かれていました。
1962年の作品であることやハリウッド映画のように大資本に支えられたものではないことから、限られた予算と表現手段で説得力をもって「時空を越える男」の物語を映像化するのはなかなか難しいものだったことは想像に難くありません。
それを「人間の意識を通して時間移動させる」という設定としたことで大掛かりな時空間移動の装置などを登場させなくても成り立つようになっていて、結果的に思いのほか説得力のあるものとなっていたように感じました。
大掛かりなセットや特撮映像、ハイテクなSFXはたしかに視覚に直接訴えてくるため分かりやすくはありますが、逆にごく限られた視覚情報しかない場合であっても、その見せ方や中身が良ければ見る側は想像力をおおいに働かせ、それぞれの頭の中で壮大な世界をイメージできるということを私たちは知っています。
面白い小説(SFやファンタジーものなどは特に)を読んでいるときは、文字情報とわずかな挿絵などから頭の中でその世界観を自由に作り出し、物語の世界に入っていくことができます。何も考えなくても全部お膳立てして映像で見せてくれる現代のSF映画よりも、昔見たレトロな特撮映画や小説のほうが心に残るのも、自身のイマジネーションをフルに活用させて体験した物語だからこそなのでしょう。
先日のアメリカ大統領選挙で話題になった「クラーケン」という単語を聞いて、映画好きの人ならすぐに『タイタンの戦い』が連想されたことと思いますが、サム・ワージントンとリーアム・ニーソン主演の2010年リメイク版よりも、レリー・ハリハウゼンが制作に携わった1981年版のオリジナル『タイタンの戦い』のほうが圧倒的に面白いのも、レトロで質感のある特撮映像に見る者の想像力が融合して頭の中に物語の世界が広がる作品だったからなのではないかと、個人的には思っています。
また今作ではモノクロームの静止画を繋ぎ合わせた構成となっていますが、前述したように「普通に撮影したフィルムをストップモーション処理して」作ったという、ひと手間かけた手法も効いているのでしょう。
ヴィム・ヴェンダース監督の名作『ベルリン・天使の詩』では、
粒子の細かい黒白フィルムで撮影し、カラーで焼きつけることで、モノクローム画面にセピアに近い温かさを出していた。
(『時の翼にのって』のパンフレットより)
のだそうです。そしてさらにその続編である『時の翼にのって ファラウェイ・ソー・クロース!』では反対にカラーフィルムで撮ったものを現像の段階で色を抜くという方法がとられたそうです。言われないと気付かないような細かい作業や工夫を作る側は色々やっているんですね。
静止画ではない唯一の場面
冒頭で「ほとんど全てをモノクロの静止画の繋ぎ合わせによって構成された」と書きましたが、1箇所だけ動画になっている場面があったことに気付きましたでしょうか。
ベッドで眠っている彼女が目を覚まし、まばたきしながら優しく微笑んでこちらを見つめる(もちろん「こちら」=「男」ですが)ほんの数秒の場面がそれです。
それ以外が全て静止画なので、一際この場面が印象的に映ります。これは完全に個人的な解釈ですが、静止画の場面は全て
であるのに対し、ここだけが「彼女」の感情を主観的に表している唯一のシーンであることからそれをより印象的に強調しているのかなと、そう思いました。
主人公自身が考えていることはナレーションを通じて知ることができますが、彼女についてはその表情から喜怒哀楽を読み取るしかないので、彼女が男に対してどのような感情を抱いているかを、私たち映画を見る側に明示するには静止画よりも動画のほうが効果的だったということでしょうか。
ヒロインの女性がカメラのほうをまっすぐに見て微笑を浮かべたり、思わせぶりな表情やしぐさをするシーンが印象的に使われている映画は、昔のフランス映画(ヌーヴェル・ヴァーグ期など)などでよく見られたように思います。
といっても例えば『勝手にしやがれ』や『死刑台のエレベーター』のラストシーンみたいに映画を象徴するような強いものとは違って、映画の途中でわりと唐突に差し込まれる“心象を映像化したようなもの”といったニュアンスで使われるシーンのことです。
最初のほうでちらっと名前を出したレオス・カラックスは、そういった「昔のフランス映画」からの影響を強く受けていた監督なので『ボーイ・ミーツ・ガール』や『汚れた血』にはそういったシーンが差し込まれていたりしました。
未来人の描写とビートルズのジャケ写
ところで未来人として登場する男女の描写を見て、すぐにビートルズのセカンドアルバム『With The Beatles』のジャケ写を連想した方も多いのではないかと思います。
『With The Beatles』は1963年の作品で、この『ラ・ジュテ』はその前年・1962年の作品ということで、どちらが先かという話でいえば『ラ・ジュテ』のほうが先ですが、実際に『With The Beatles』のジャケ写が今作での未来人の描写に影響を受けていたのかどうか気になったので、それもちょっとだけ調べてみました。
Wikipediaで『With The Beatles』について見てみたところ、以下のようなことが書かれていました。
このジャケット写真を撮影したのはロバート・フリーマン。マネージャーのブライアン・エプスタインは、ロバートが撮影したジョン・コルトレーンの白黒写真に感銘を受けて依頼した。メンバーはハンブルク巡業時代に知り合った友人のアストリッド・キルヒャーが撮影していた写真をフリーマンに見せて、同様のものにしてほしいと要請した。
なるほど、たしかに当時のジャズのアルバムやミュージシャンの写真には同じようなハーフシャドウのカッコいい白黒写真がたくさんあるので、この時代のトレンドだったのかもしれませんね。というかこの手法自体は現在でもしばしば使われていて、表現方法のひとつとして確立されているなのでしょうけど。
でもそれを踏まえて見てみても、やっぱりよく似ています。4人の構図や光があたっている側だったり首から下が黒い服で背景と同化しているところなどはほとんど同じですよね。
大塚明夫ナレーションver.について
こちらも冒頭に書きましたが、2018年1月にシネフィルWOWOW(現在はWOWOWプラス)で放送された大塚明夫による日本語ナレーションver.を録画していたので、字幕版と両方見比べてみました。時間が短いのでこういう作業も普通の映画より楽でいいです(笑)。
まず最初に日本語ナレーションのほうを見て、そのあとで字幕版を何度か見てからまた日本語版を見直してみたのですが、最初は日本語版がやや分かりづらく感じました。静止画での映像に加えてナレーションのセリフも少なめなので(元のセリフ自体が少ないので)設定や展開への理解にちょっとだけ難儀するというか。
その後字幕版を見て分かりづらかった部分は補完できたのですが、そこからもう一度日本語版に戻ってみると、実は日本語版も十分に分かりやすい説明がされているものであったことに気付かされたのでした。もちろん大塚明夫さんのナレーションもシブくて最高です。
そして両方を見比べて説明が違っている箇所があることにも気付きました。それは未来へ行ってエネルギーを持ち帰った後の処遇についての説明部分で、字幕版では
というニュアンスだったのに対し、日本語版のほうでは
というようなものになっていました。
字幕版のほうでは捕虜であることには変わらないものの、ご褒美的に幸せな時代のイメージを与えられるという、映画『マトリックス』でいうところの「培養器の中の“目覚めていない”人間」のような扱いを受けていることが語られています。
これは『12モンキーズ』で犯人をつきとめた(間違っていたけど)ジェームズが特赦を得たという設定にも繋がってきますので、こちらのほうがしっくりくると言えばしっくりきますが、日本語版のほうは言葉が詩的で無駄がなく、うまくまとまっているのもまた事実なんですよね。
彼らの期待に応え、目的を果たした今
始末されるのを待つのみだ──
二度生きた時間の思い出を
心の内に抱きながら──
どちらも「役目を果たした自分はじきに殺されることになる」という点は押さえているのでストーリーの解釈に大きな違いは出ないと思われますが、『12モンキーズ』にも繋がる「役目を果たして(おそらくはまやかしの)褒美を受ける」という設定を解っていたい人にとっては字幕版で見るほうがよいのかもしれません。
その他、舞台設定などについて
映画のタイトルにもなっている空港の展望デッキ(※)ですが、今作品が1962年の映画であることを考えると大きな空港の展望デッキという場所はそれだけで絵になる、近未来的で実に絶妙なロケーションだと言えます。冒頭で見られる上空から見た空港の画像は今見ても魅力的な非日常感がありますし。
※「La Jetée」はそのまま訳せば「桟橋」だそうです。船舶の係留施設などの意味で使われる言葉ではありますが、船舶を飛行機に置き換えてみるとなんとなく理解できるような気がします。
また、これは前述のインターネット・ムービー・データベースのトリビア投稿欄に書かれていたのを読んで知ったことですが、科学者たちが話している言語がドイツ語なんですよね。
たまたま自分が昨年夏からドイツ語を(ちょっとだけですが)勉強し始めたため会話の意味までは理解できないものの(笑)、とりあえずセリフがドイツ語だということは確認できました。ただし音があまりに小さ過ぎて一部しかセリフを聞いていないので、会話の全てがドイツ語だったのかどうかまでは未確認です。
これは第三次世界大戦ではドイツが勝者となっている、ということを示唆しているのでしょう。1962年っていうと第二次世界大戦の終結からまだわずか17年しか経っていないわけですから、これが意味するところも最近の映画とはまたずいぶん違ったものになるのでしょうね…。
ちなみに現在から17年前となると2004年ですから、スマホがないということ以外は今とたいして変わらない“ついこの間のこと”といった感じがします。
というわけで短い映画だったわりに、書いてみたらかなり長くなってしまいました。同じことの繰り返しになりますが、こんないい映画はもっと早くに見ておけばよかったです。少なくとも2年前には録画してあったんだから(笑)。





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