【トリコロール三部作】映画『トリコロール 白の愛』──“平等な愛”というものは存在するのか【BLANC】

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ポーランドの今昔

 映画の中でも語られているように、この頃のポーランドは「自由化の波」が押し寄せ、かつての「東側」「共産圏」といったイメージから脱却しようとしていた時期のようですが、物語の前半の舞台であるパリとの差は激しいものがあり、やはりその違いは歴然です。EUに加盟する10年以上前のことですので、それも当然といった感じなのでしょうけど、逆に今現在のポーランドと比べるとあまりの変貌ぶりにびっくりします。ってか行ったことないくせに何を偉そうに…という話ですけど(笑)。

 ここ数年やたら増えた、テレビでのわざとらしいまでの“日本アゲ”系番組による情報はともかくとしても、日本に関心があるという人はこちらが思っているよりも多いのは事実のようで、個人的に利用していた言語交換サイトでも「日本語を勉強したい」というポーランド人は周辺国の中でもドイツと並んでとくに多かったように感じたのですが、今作のような映画のイメージを引きずったままだと不思議な気分がします。フランスにせよ日本にせよ、良くも悪くもこの20数年でここまで変わったりはしていませんし。。

 

パンフレットより

パンフレットからの引用

 『青の愛』のほうでも書きましたが、この「トリコロール三部作」のパンフレットは3作統一となっています。そのため、この3つの物語を読み解くうえでも参考になる、なかなかに充実した内容となっており、久しぶりにこの三部作を見た今あらためて読んでみても役に立つ面白いものでした。そこから2つ、少しだけ引用して紹介します。

 

引用1

ズビグニェフ・ザマホフスキへのインタビューより

(構成:石木まゆみ氏)

※オリジナル・プレス、「テレラマ」’94年6月24日号より

 

──キェシロフスキ監督から、カロル役について厳密な指示はありましたか?

「彼は、カロルという人物について、ほとんど私に語りませんでした。ただひとつの指示は“チャーリー・チャップリンを参考にしろ”というものでした。でもそれは、チャップリンをまねしろという意味ではありません。監督の頭にあったのは、あの独特な、悲劇的なものと滑稽なものの混じり合いでした。そしてチャップリンのとらえがたい側面、さらには彼の普遍的な側面をカロル・カロルに与えたいと、監督は思ったのでしょう」

 

引用2

「解説」より

(略)紡がれるお話は、男の純情。妻への一途な愛です。ここにあるのは“愛は平等であり得るのか”という命題です。愛のイニシアティヴは必ずどちらかが取るのだとすれば、一途な愛を捧げる弱い側は、どのようにして“平等”を勝ちとればいいのか。キェシロフスキは、哀しくもおかしい男の軌跡を通して、ちょっぴりスパイスを効かせながら、この命題を解き明かしてくれます。彼は、この主人公にカロルという名をつけました。カロルとはポーランド語でチャーリーを意味します。そう、彼はこのキャラクターを“愛する道化師、チャップリン”に見立てていたのです。

 

 なるほど…。たしかにこの『白の愛』は他の2作と違って少しコミカルなところがありますし、カロルの立ち振る舞いやキョドり方(笑)などは気劇的であると同時に、いちいち不運に見舞われたりドミニクからの扱いのひどさなど、冴えない男の哀愁のようなものも感じられます。

 ってかそもそも「カロル・カロル」っていう出オチみたいな名前からして三枚目感半端ないですし(笑)。

 

雑誌『スウィッチ』ジュリー・デルピー特集号 (めちゃめちゃ曲がってて恐縮ですw)

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