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Pola X

【レオス・カラックス】映画『ポーラX』──公開から20年。③「感想、または諸々の曖昧さ」【わが心のイザベル】

投稿日:2019年11月17日

 原作・関連書籍も絡めて振り返っていったレビュー前半の第1回目と第2回目に引き続き、レビュー後半はイザベル原理主義者といってもいいくらいのイザベル擁護の立場で映画『ポーラX』の感想を2回にわたって語っていく感想編となります。今回は第3回目です。

 

 

 

 思い入れが強い映画なのでかなり長くなってしまい、説明がくどい部分も多々ありますが、何卒ご容赦ください(笑)。また最後となる第4回目では、主演のふたりのその後についても少しだけ触れています。

 

 ちなみに記事タイトルにある「または諸々の曖昧さ」というフレーズは、小説『ピエール』の原題『ピエール、または諸々の曖昧さ』からとったものですが、第1回目でも書いたように、フランス語版の原題である『PIERRE ou les ambiguïtés』の頭文字に謎を表す記号のXを加えたものが映画『Pola X』のタイトルの由来です。

 前回はWikipediaにもある情報から「10番目の草稿であることを表す数字“X”を加えた」と書きましたが、映画のパンフや当時のインタビューなどでは「謎を表す記号」として「X」をつけたとなっているので今回はそのソースを元としました。

 

 

実はほとんど原作に忠実な映画

 この『ポーラX』という映画は、レビュー前半でも度々書いたようにほとんどが原作通りであり、その元となった小説を現代版/フランス版(※原作はアメリカが舞台)に置き換えた映画といっても差し支えないほど小説の内容に忠実な物語であることを、まずは知っておいていただきたいと思います。

 

 主人公がひたすら内側へ内側へと向かっていき、そして堕ちてゆくという展開、ピエールの未熟さからくる厨二病的な発言や行動、そして内戦から逃れてきた難民という設定や得体の知れない集団の登場など、やや現実離れした印象がある作品なので、良くも悪くも「いかにもレオス・カラックス的な映画だなぁ…」という感想を持たれた方も結構おられるかもしれません。

 ですが実はそういった部分も含めて、びっくりするくらいに小説とシンクロしているのがこの『ポーラX』なのです。どんだけこの小説から影響を受けたのよってくらいにレオス・カラックス映画の世界観と小説『ピエール』はシンクロしています。

 

 では具体的に映画のどのあたりが原作となった小説『ピエール』と同じ(または現代の設定にアレンジしたもの)なのかについてですが、おおよそこんな感じとなっています。

 なおこれはレビューの第1回目にも書いてあるものと同じです。

 

  • 郊外の自然に囲まれた場所に暮らす裕福な親子。ひとり息子のピエールは美しい未亡人の母を「姉さん」と呼ぶ
  • ピエールにはリュシー(小説では英語名なのでルーシーという金髪・碧眼の美しい婚約者がいて、ふたりは幸せそのものである
  • ピエールが夢に見るという黒髪の女の存在にルーシーは不安を感じていて、「隠し事はしないで」と強く迫る
  • ピエールには歳の近いいとこがおり(映画ではティボー、原作ではグレン)、彼は密かにリュシーを愛している
  • イザベルという長い黒髪の女性が現れる
  • イザベルの独白──不幸な生い立ちと、お金持ちらしい「父親とされる男性」の存在、母の記憶はない。自分はピエールの母違いの姉であり、自身の母はピエールの父親とは結婚しておらず、若くして亡くなった
  • ピエールにもそう言われると父親のことや家の中のことで思い当たる点があり、イザベルの言うことを信じる
  • ピエールが「恐れの岩」と呼ばれる不思議な形の岩へ行く
  • リュシーとの婚約を解消し母とも別れを告げ、イザベルを自分の妻ということにして都会に出て一緒に暮らすことにする。またその際にイザベルと共に暮らしていた女も一緒に連れて行く
  • ピエールは小説を書いて生計を立ててゆこうとする
  • 都会でいとこに助けを求めるが、彼はリュシーを傷付け家を出たピエールに罵声を浴びせて門前払いをする
  • 何かの組織だった集団のアジトに身を落ち着ける。非常に質素な場所でまともな家具もなく、食堂とドア続きでそれぞれの部屋が繋がっている間取りである
  • 息子の家出で錯乱した母親が亡くなる
  • ショックから寝込んでいたリュシーが回復し、ピエールのところへやってくる
  • ピエールの元へやってきたリュシーを弟(原作では兄)といとこが連れ戻そうとする。そこへピエールと組織の連中がやってきて二人を引きはがし、リュシーを受け入れる
  • イザベルはリュシーとピエールの関係に非常にナーバスになる
  • イザベルをなだめるピエールが彼女にキスをすると、もたれかかったドアが開いて抱き合ったまま二人はリュシーの部屋に入ってしまう
  • ピエール、イザベル、リュシーの3人で波止場へ散歩に出かける
  • 散歩の途中で見つけた「父親」の姿(写真または絵)への反応から、イザベルが本当に自分の姉なのかが分からなくなってくる
  • イザベルがリュシーに「あなたは私の友だちなの?」と詰め寄る。その後イザベルが船から身を投げる(原作では飛び込む寸前に止められる)
  • 出版社に送った小説が全く受け入れられず、酷評される
  • いとこからの手紙を受け取り、組織の連中が持っていた拳銃を二梃奪ったピエールはその銃でいとこを殺してしまう
  • ピエールの元へイザベルとリュシーが駆けつける。ここでイザベルはリュシーの前で初めて「彼はわたしの弟」と言う

 

 …ほとんどそのまんまじゃないですか。。

 

 個人的に驚きなのが、あのエキセントリックな設定の謎の集団。カラックス信者だった自分でも、さすがにこれには「なんだよこの連中はw」と苦笑してしまったのですが、小説でピエールたちが身を寄せた先も社会の何かを変えようと目論んでいる謎の組織で、その設定を現代のフランスに置き換えたらああいった集団になった、というのも納得がいくものだったのでした。まぁあの演奏は何なんだという気がしないでもないですが(笑)。

 

原作となった小説『ピエール』

原作となったメルヴィルの小説『ピエール』のカヴァー。

 

原作を知ると映画の見方がぐっと変わる

 映画『ポーラX』が好きな方の中でも、なかなかその原作となった小説まで読んでみようと思う人はいないかもしれません。ですが小説『ピエール』を読むと『ポーラX』に対する見方や、イザベルに対する印象はきっと変わってくることでしょう。

 

 『ポーラX』を見てイザベルに対してネガティブな印象を持った方は、

 

ピエールとリュシーの幸せのみならず、マリー(ピエールの母)やティボーの命を奪う原因となり、さらに言えば結果的にはペトルーツァの娘ミハエラも死なせてしまうこととなった災いの元凶

 

 という存在として見ているかもしれません。まぁ結果としてはそうなってしまうのですが、でもそうなってしまったのはひとえにピエールの未熟さ(と不運)によるところが大きいので、一概にイザベルを「悪」として考えてしまうのはあまりにも気の毒です。

 

 小説のイザベルは映画のイザベルよりも多弁(ってか小説という形式上、主な登場人物は皆多弁)で、彼女が何を考えているのか、どういう感情をピエールに抱いているのかは、映画に比べると分かりやすくなっています。

 小説のイザベル(イザベル・バンフォード)という謎の女も、やはりその不幸な生い立ちによって苦労や孤独と共に生きてきた女性ではありますが、かろうじて現在生きてゆくための仕事と寝床はあって、近隣の住民とささやかな交流を持つだけの社交性も持っています。

 貧しい女中の身ではあるけれども、映画のイザベルほど「今日を生きていくだけで精一杯」な生活ではありませんので、ピエールに物質的な何かや生活の保証といった類いのものは一切求めません。

 イザベル・バンフォードが望んでいたのは愛だけで、ピエールの姉である自分という存在を信じてもらい、愛というものを知らない“哀れなベル”を唯一の肉親として抱きしめ、無条件で愛してくれる存在として認めてもらうことだけでした。

 自分はもう「天涯孤独で愛というものに暗く、誰一人抱きしめてくれるものはおらず、自分でも何者なのか分からない哀れな女」ではないのだ、という心からの安心と幸せが得られるのだから、それ以上のものは求めない、求める資格も自分にはない、と考えている女性──それが小説のイザベルでした。

 

 映画のイザベルも本質的にそれは同じであり、本人も「何もいらない。ただ、私を信じて」と言っています。ピエールのその先の転落人生は、彼が「よかれと思ってやった」ことによる自滅でしかなかったのです。

 また小説のイザベルは、自身の身の上と「ピエールの姉」であることについての根拠を話したあとで、不安げにこう訊ねます。

 

「(前略)ねえ、教えて──あたしを愛し、あたしを持ち物と認めてくれたなら、公けにも秘密にもよ──ねえ、教えて、そのことであなたに生きるか死ぬかの害を与えるかどうか? 包み隠さず話して。正直に話して、あたしだって正直にお話してるんだもの。さあ話して、ピエール、全部打ち明けて!」

 

 そして映画のイザベルも、覚悟を決めて家を出たピエールの

 

「僕は決めた。これしか方法はない。僕と一緒に暮らそう」

 

 という言葉に

 

「だめよ。よくないわ」

 

 とピエールの提案に反対しています。どちらのイザベルも、天涯孤独な自分をただ姉として認めて、そして愛してほしかっただけだったのです。少なくともピエールに自身の存在を伝えた時点では。

 

 

イザベルの変容

 ですが小説でも映画でも、ピエールと一緒に暮らすことになってからのイザベルの発言や態度に、変化のようなものが見られます

 それがイザベルの特殊ともいえる謙虚さや純粋性を曇らせ、さらには「彼女は本当にピエールの姉なのか」についても疑念を抱かせることに繋がり、その人物像や正体を曖昧なものにさせていったように思います。

 

 『ポーラX』のイザベルは、ピエールに出会うまでの人生があまりにも不幸で、物質的なものはもちろんのこと、フランスという文明国で生きるうえで最低限保証されてしかるべきのものすら持っているのかどうか定かではないため、ある種達観しているようなところがあって徹底的なまでに欲というものがありません

※警察に連れていかれても強制退去どころかその日のうちに解放されるところを見ると、同じ難民でもペトルーツァ&ミハエラ親子とは立場は違うのかもしれませんね

 

 でもようやく唯一の肉親である弟が現れ、(それが家族に対してのものか異性に対してのものかは関係なく)無条件で愛する対象、自分を愛してくれる対象と一緒に生活するようになったことで、その幸せを失うことへの怖れや執着のような感情が見られはじめます。

 ピエールの婚約者であったリュシーが突然やってきたとき、イザベルが弾いていた音楽はそれまでとは違って不穏そのものといった音色でしたし、ピエールに伴われて歩いてくるリュシーに向ける視線には、何もない自分がやっと摑んだ幸せを恵まれている者に奪われることへの怖れが表れていたように感じられました。

 

 監督のレオス・カラックスが映画のイザベルに与えられたイメージは

 

「隅に追い込まれた野生の動物」

「傷つき、追いつめられた獣」

 

 というものだったそうです。

 ですからこのときのリュシーに対する視線は、ひとりの男をめぐって同等の立場の女がバチバチと火花を散らすときの目ではなく、自分よりも大きい獣、もしくは自分を捕食する獣がやってきたときの怖れと威嚇の目だったのではないかと思います。

 

 またドアを取り付けリュリーが部屋に入ったあと、ピエールに

 

「私はあなただけでいい。あなただけで。私では不満?」

 

 と問いかけます。

 このような発言は、普通の姉と弟の関係では筋が通らないものですが、イザベルは社会のルールだとか、国民が安全に暮らしていくための公共秩序といったものから外れたところにいる存在なので(そういったものはイザベルを守ってはくれなかった)ピエールが「弟」なのか「ひとりの異性」なのかは意味を持たず、ただ純粋に「この世でひとりだけの愛する対象」として見ているから出てくるものなのでしょう。

 ピエールの認識が世間一般のもの(姉は姉として愛するが、女として愛する対象ではないという当たり前の感覚)かどうかは考えないところは、イザベルの罪であるとも言えますが……

 

 最初にピエールたちがあの建物にやってきた夜にふたりはセックスをしますが、このときのピエールは

 

「姉だと信じて一緒にいるが、間違いないという確証があるわけではないので100%信じてはいない

「彼女に何でも与えてやりたかったが自分には何もなく、何も出来なかったことに深く傷付いている

 

 という考え・状態であったため、イザベルの愛にすがり、身をゆだねたのだと思います。

 

 かたやイザベルは、演じているカテリーナ・ゴルベワがインタビューでも話していましたが

 

「ピエールがとても苦しんでいて、何とかして助けてあげたいが自分には与えるものが何もない。それなので女性の本能として最後のものを彼に捧げなければならない

 

 と感じたから彼に自分を与えた──のでした。

 

 そういったこともあったふたりなので、少なくともイザベルにとってピエールとは、モラルとかそういったものを超えた次元で結びついた「唯一離れがたき存在」であったのだろうことは想像できます。

 なお小説のほうでははっきりとした近親相姦的な場面こそありませんが、やはりイザベルがルーシーの登場で怖れを抱き、ピエールへの執着を感じさせる描写は出てきます。

 弟に対する愛か男に対する愛かといった区別を超え「ただただピエールを愛する」というイザベルの感情の描写はむしろ小説のほうが強く出ているように感じました。

 そんな「傷つき、追いつめられた獣」であるイザベルによるリュリーへの態度や発言は、イザベルを「不幸な人生を送ってきた姉」として見れば大変いじらしいものとして受け止められますが、これを

 

「ピエールから婚約者であったリュシーを引きはがして一緒になったが、今またピエールの元へ現れた婚約者と対峙することになった女

 

 として見ると

 

やっぱり女って怖ぇな……

 

 と思われても仕方がないところです。まぁ私は冒頭にも書いたようにイザベル原理主義者ですからそんなことは全く考えませんが(笑)。

 

原作となった小説『ピエール』

小説『ピエール』の背表紙

 

ピエールとイザベルの関係

 一方のピエールはというと、イザベルと出会い一緒に暮らすと決心するあたりまでは、イザベルに対して、というか「姉」というものに対して特別な思いがあったわけではなかったように思われます。

 ピエールを動かしたのは、

 

満ち足りて何不自由のない“光の中で”生きてきた自分およびヴァロンブルーズ家には隠された闇の部分があったこと

そしてその闇の部分を背負い“闇の中で”辛い人生を生きてきた、自身と同じ父の子である姉・イザベルという存在を知ってしまったことによる責任と罪悪感

純粋に姉を助けたいという思い

「そんな呪われた運命に立ち向かい、乗り越えてゆく男」になろうとする自己陶酔的な感覚

 

 だったのではないでしょうか。

 

 もしも全てが思惑通りに事が運び、ティボーの協力も得られて金銭的に問題なくパリで生活していけたのなら、一体ピエールはどうするつもりだったんだろうと気になりますが(ずっとイザベルを妻ということにして生きていくつもりだったのか、など)、実際には初動から大きく躓き、協力してくれる者もおらず、自分たちへの世間の厳しい扱いに徐々に打ちのめされていきました。

 それに追い討ちをかけるようにミハエラが死んでしまうという不幸(医者に連れていくことも出来ず、さらに死ぬ原因はピエールが動物園で言った言葉にあった)が重なり、ひどく落ち込んだピエールは彼を慰めるイザベルと体の関係を持ってしまいます。

 

 ここからピエールとイザベルの関係は姉と弟という枠から外れ、かといって男と女の愛で結びついた関係というわけでもない曖昧なものとなり、同時に共依存的な面も帯びてくるようになります。

 イザベルがセーヌ川に飛び込む直前に

 

「私があなたの幸せを邪魔しているのよ!」

 

 と悲痛な叫びを上げれば、ピエールも自殺しようとしたイザベルの行為を

 

「自分のせいだ」

 

 と自らを責めます。それでもイザベルは朦朧とした意識の中でずっとピエールの名を呼び続けますし、ピエールも病室にいたイザベルにティボーが会いに来たことについて

 

「やつにやられなかっただろうな!」

 

 と、おぞましくも醜い執着の言葉をイザベルに浴びせてしまいます。

 

 相手を不幸にしていると自覚しつつも相手を求め続ける女と、相手を労りたいと思いつつも執着によって傷付ける男……

 

 これ、完全にダメなパターン………

 

 ちなみに小説のピエールはイザベルと出会う以前から「姉」という存在を渇望しており、「姉さん」と呼ぶ美しい母親やルーシーという婚約者がいても満たされない何かを「姉」というものに求めているような男でした。

 そのため、イザベルとの出会いはある意味必然と言えるものであり、「尊き天使(みつかい)」と表現される金髪・碧眼で白い肌のルーシーと対をなすかのような、魔力じみた美しい黒髪に黒い瞳、浅黒い肌の「悪しき天使(みつかい)」イザベルは、光の中に生きる母とルーシー(そして自分)にはない神秘の存在だったのでした。

 そんな神秘的な魅力を持ったイザベルがずっと渇望していた自分の姉だったということで(真偽は不明でも)、彼女に対するピエールの感情は、姉弟の愛とか男女の愛とかいった世間一般の尺度では計れない、それでいて抗うこともできない不思議な力に飲み込まれていったように感じられました。

 

 かたや映画『ポーラX』のピエールとイザベルには、そういった設定はされていませんでした。

 ふたりが(というかピエールが)足の着かない深い濁流に飲まれるかのように全てが悪い方向へと堕ちていったことで、彼らは“普通に”生きてゆくためのルールやモラル、常識といったもので成り立っているこの世界から放り出されていきます。

 そんなギリギリの場所で一緒に生きていくふたりの「愛」がどのような形の「愛」なのかは、もはや意味をなさなくなっていたのでしょう。

 

 そんな、暴力的なまでに残酷にこの世界から堕ちてゆくピエールとイザベルには、はたして心から幸せだと感じるときがあったのだろうか…。

 そう感じられる場面は宿に身を落ち着けた直後くらいで、楽しそうな笑顔が見られたのもみんなで食事をしてお酒を飲んだ中華料理屋での夜だけでした。そう考えるとあまりの幸薄さに改めて悲しくなってきます。

 また映画の中で幾度となく走るイザベルですが(女たちに向かって走っていた過去3作のアレックスたちとは逆ですね)、ほとんどはピエールから逃げるか、逆にピエールの身を案じて彼の元へ向かうときだけであり、どちらも必死で走っていました。

 例外は動物園に行ったときで、イザベルがピエール以外の何かに向かって走ったのは唯一ここだけです。こういう場面がもう少し見られたら「ふたりにも幸せと感じるときがちゃんとあったんだな」と思えるのでしょうが。。。

 

くどくて読みづらくなってスミマセン(笑)。

④へ続きます。

 

 

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三崎町三丁目通信の主筆・Kです(個人運営ですが)。映画の感想を中心に、趣味で続けているスペイン語学習(DELE A2取得で止まっています)と最近始めた英語学習のことなどを書いています。本業はフリーランスのグラフィック&エディトリアルデザイナー。びっくりするくらい将棋が弱いです。

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