第3回目に引き続き、感想編の後半となる今回は、私がイザベル原理主義者(笑)となってしまった理由と、映画の中の対極部分である「光と闇」の描写について、そして主演のふたりの悲しいその後のことなどを書いていきます。
ちなみにタイトルの「尊き天使(みつかい)と悪しき天使」は小説でのピエールの言葉(もちろんルーシーとイザベルのこと)で、そのあとの「そしておわり」は小説の最後の章タイトルからとりました。
もしもグッドエンディングにできたとしたら…
愛し合う男女が紆余曲折を経て、最後にようやく一緒になってどこかへ旅立つところでエンディング──となるストーリーは映画や小説ではテンプレのようにスタンダードな形です。
見る側からすると、その後のふたりがどのような人生を歩んだのか、幸せになれたのかが気になるところですが、ほとんどの場合それは見る側の想像に託されます。だからこそグッドエンディングのその瞬間の思い出をずっと持ち続けることが出来るのでしょう。
この『ポーラX』は、話が動き出してからのピエールは何もかもが悪い方向へいってしまい、救いようのないバッドエンドで終わってしまいます。
もしも「グッドエンディングとなる瞬間」がこの映画の中にあったとしたら、それはピエールがイザベルに「夫婦ということにして一緒に暮らそう」と誘ったあのときかな…と個人的には考えています。
というセリフを聞いたイザベルがポジティブな反応を示して二人が旅立ったならば、一応はそこがグッドエンディングのポイントだったのかもしれません。
ですがそのセリフを聞いたイザベルからは安心や嬉しさといったものは全く感じられず、表情のないその目は空虚に彷徨うのみでした。
悲しい生い立ちに始まり、戦渦を逃れ大変な苦労の末にフランスへやってきてホームレスとして身を潜めながら生きているイザベルにしてみたら、何不自由のない暮らしをしているブルジョワが満たされた日々に退屈さを感じて
などといった厨二病的甘々な考え・発言が心に響くはずもないのは当然のこと。
ですから、仮にここがグッドエンディングのポイントだったとしても、このときのイザベルの表情からその後の幸せは想像出来ません。
うぅむ……となるとやはりどの部分で切ってもこの物語はバッドエンドにしかならないのでしょうか。。
列車の中で「これは金になる」と、書きかけの小説のデータが入ったフロッピーをピエールが見せたとき、イザベルがそれには何も応えず黙ってビニール袋からパンを取り出し、おもむろにちぎって大きいほう(というかほとんど全部)を差し出す──というシーンがあります。
そういった形のない曖昧なもの(=フロッピー/そして実際にこれは何の役にも立たなかった)に頼ることなく、ただ今ここにある“生きる糧”であるパンを取り出して与えようとするイザベルの姿からは難民としての厳しい生活が窺い知れますが、もしもピエールが小説なんてものにこだわらず、生きてゆくためにもっと地味で地道な方法を選んでいれば、少しはまともな展開になっていたかもしれません。
まぁ苦労知らずの人生で、この荒波を乗り越えるにはあまりにも経験が少ないピエールには、どのみちどこかで溺れてしまう運命だったのでしょうけれど…
もしピエールにもう少し人生経験があって、冷静さや賢さといったもの持っていたなら、これまでの生活をとりあえず維持しつつイザベルたちの生活を援助するなどして、そこから次の展開を考えるといったことも出来たのでしょうけど、ピエールはあまりにも若すぎたのですね。ちなみにこの辺の若さと拙さもびっくりするほど原作通りです。
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