…からの急展開
そんな理想的な夫婦像からの離婚話。「えーっ」と驚きつつ、でもこのふたりならなんとか穏やかに穏便に話し合いをつけていくのかなと思いきや。
離婚弁護士が噛んできたところから一転、ドロドロの展開に…。
外野が絡むと余計こじれてぐちゃぐちゃになってしまうのは男女の問題に限らずよくあることですが、その「外野」がビジネスとして絡んでくる弁護士となるとここまで面倒なことになるのか…と、見ているこっちもうんざりしてきます。
「アメリカは訴訟大国」なんていうことをよく耳にしますが、これくらいが普通なのか、それともむしろこんなの序の口なのか……先日たまたまCSで見たザック・エフロン主演の『セブンティーン・アゲイン』でも離婚裁判のシーンが出てきましたが、こっちのほうは全然違っててずいぶんとチョロいものでした。そういう映画と一緒にすんじゃないよって話ですけども(笑)。
弁護士を通したことで、しなくてもよかったはずの争いをお互いにすることになり、心の奥底で燻っていた相手への不満が言い争う中で勢いがついて噴出。その結果、心にもない本当に酷い暴言を吐いてお互いを罵り、相手を傷付けるのと同時に自らが発した言葉によって自分自身をひどく傷付けてしまうことになってしまいました。
こうなってしまうともう修復は完全に不可能…というか少なくとも以前のような関係に戻る道は閉ざされます。
一度出てしまった言葉は、たとえそれが本心ではなくても、もしくは誰もが持っている心の奥にある怒りや不安がストレスによって表に出てきてしまっただけのものであっても、その言葉の刃はあまりにも鋭利で、それによって受けた傷は想像以上に深いものとなってしまいます。
チャーリーが調査員の女性の前で「ナイフ遊び」の説明をしたときに、刃が出ていることに気付かず腕に当ててしまい思いのほか深い切り傷になってしまったように。
ただ、もしふたりだけで離婚調停を済ませて、互いを罵り合うような酷い関係になることなく穏便に別れることが出来たとしても、それが良い結果なのかどうかは分かりません。
「臭い物に蓋をする」ではないですけど、今は見たくない現実から目を逸らして何とか穏便にやり過ごしても、将来のどこかで溜めていたストレスや怒りが爆発してしまうことになるのかもしれませんし。。
ニコールの葛藤
先にも書いたように独身なのでこの映画のようにパートナーと長く暮らした経験もないのですが、ニコールの葛藤というか、感じていた不条理さみたいなものはよく分かる気がします。
まず、ベンと婚約していた頃のニコールが「実質死んで」いて、チャーリーと出会って「死んでいた部分が生き返った」と感じた──と言っていた点について。
若くして映画に出演し有名になったニコールは、映画女優として認知(評価?)されている自分がいる一方、本当の自分(素の自分)を求めてくれる人がいなかったことで、本当の自分とは違う“映画女優ニコール”として生きていることによるアイデンティティの喪失から「死んでいた」と感じた。
そしてチャーリーと出会ってからのニコールは、彼の劇団で舞台に出るようになって「将来を嘱望される有名な若手映画女優」から徐々に「無名の女優」となり、本来の(または等身大の)自分自身を見てくれる人たちの中で生きるようになる。さらに彼と結婚し子どもも生まれたことで女優としての自分ではない、ひとりの女性としての人生を送ることの幸せや喜び、生きがいを感じるように。
それが「死んでいた部分が生き返った」という言葉の意味なのかなと思いました。
ですがそういったプラスの面の影に、以前の「実質死んでいた」頃とは違う意味でのアイデンティティの喪失がニコールの内面に現れます。
彼女の意見や個性などを直接表現できる対象がチャーリーだけとなったことで、彼女の良さやアイディア、好みなどはチャーリーの仕事や生活に吸収・反映されるばかりで、そのことで彼の評価が高まることはあっても彼女には脚光は当たらず(もちろん女優としての評価はされている)、見返りや還元といったものもありません。
ニコール自身も女優であるわけだから、本来ならば女優としての演技だけでなく、彼女自身の個性や感性に対しての評価も欲しい、その部分も見てほしいと思うのは当然のこと。
なのにだんだん「才能ある夫を陰で支える女(彼の妻であり、また彼の劇団の看板女優)」という立場になってしまっていることに不満を覚え、そのやるせなさは蓄積していったのでしょう。
子どもの存在
チャーリーが息子のヘンリーと一緒に過ごす日をふたりは約束して決めるものの、もちろんヘンリーにはヘンリーの都合や気分・感情(今は○○がしたい、など)といったものがあります。ですがヘンリーの気持ちはほとんど受け入れられることはなく、チャーリーが「今日は自分の番だから」と半ば強制的に連れ回すことになっているのも見ていて辛く感じるところでした。
親権争いとか親子の時間の確保に必死なのは分からなくもないけど、そういうときってだいたい子どもの気持ちはそっちのけなんですよね。。結局せっかくの時間を親も子どもも幸せに過ごせていないという…
都会の人(とりわけ業界人)にとってはリアル?
そして互いに譲歩したりしつつニコール側の勝利?という形で何とか裁判も決着がつき、それぞれ別々の人生を送っていくことになるわけですが、地元のLAで順調にキャリアを積み上げ家族や仲間に囲まれて暮らすニコールと、いちおう仕事はうまくいっているようだけどLAでの生活がちっとも楽しそうに見えないチャーリーという、劇的な結末でもなければあっと驚くような展開でもない「そのまんまじゃねーか」というエンディングを迎えることに。
現実なんてそういうものさ
なんて言う人もいるのかもしれませんが、はたしてこのふたりの生活にリアルさを感じる人がどれくらいの割合でいるものなのでしょうか。
自分も20年以上東京で暮らして、一応はマスコミ業界・音楽業界の隅っこで仕事をしていたので(ってか田舎暮らしの今も同じ仕事してますが)なんとなく分かるんですが、首都圏に暮らしているとその生活が国内の標準と無意識に考えてしまうところがあります。
ニュースをはじめとしたメディアからの情報も首都圏での生活を基準として語られていますし。(一番分かりやすいところだと電車での通勤・通学を基本としているとか)
さらにマスコミや芸能、音楽関係などのいわゆる「業界系」の中で生きている人たちは、世間の大多数とは違う生活様式、仕事のスタイルで生きているのに、周りもみんなそうだからそれが普通になっていて「そうじゃない」人たちのほうが圧倒的大多数だとは思えなくなっているように見えるんですよね。
もちろん間違っているとかそういうことではなくて、まぁそうなるんだろうな、っていう話なだけなんですが。
で、何が言いたいかというと、この映画の舞台であるNYもLAも、世の中の大多数の人たちが暮らしている世界とは全然違う、ある意味特殊な場所であり、なおかつ映画女優と舞台演出家(それも田舎でやってるアマチュア・セミプロレベルではなく)という職業のふたりの物語なんていうのは、見ている側からしたらリアリティなんて感じるわけがない「画面の中の人たち」でしかないわけです。
地位もお金もあってテレビの仕事がどうのブロードウェイがどうの、なんていう男女の離婚話にリアルな人生を感じ取れる人ってどんだけいるのよ、っていうことです。
でもそういうのって作ってる人たちはおそらく分からないですよね。だって作ってる人たち全員がそっち側なんだから。逆にそっち側の人間になってそっち側目線で見ればバリバリにリアリティのある話なのかもしれませんが…
それを踏まえて序盤に書いたことをもう一度……
で、これを見せられてどうしろと?
その他
冒頭で語られる「相手の良いところ」が後々の展開で効いてくる構成となっている今作ですが、そのなかでいくつか気になったところがありました。
チャーリーについての語りで「セーフティネット無しでインディアナ州からNYに出てきて」というくだりがありましたが、ここでの「セーフティネット」って何なのでしょうかね。こういうところは字面だけ見ても知識が足りないと分からなくてもどかしい。。
同じくニコールによる語りで「服のセンスがいい」というのがあったんですが……
これは一体どういうことなのか?(特命リサーチ200X風)
笑うところなのだろうか……。うぅむ。
あとチャーリーによる語りの中で「ニコールは知ったかぶりをしない」という彼女の長所は、ノラにトム・ペティの歌を例えに出された際に素直に「知らない」と即答していたところで証明されていましたね。そう言われてみればああいう場面で「あぁ~。ですね~」みたいに適当に相槌を打ってしまうことって多い気がします(笑)。
ところでこの映画を見た日本人のうち、(とりあえずチャーリーとニコールのことは置いといて)単純に2つの都市でのライフスタイルとして見た場合に「NYよりLAの生活のほうがいいな」と思った人ってどれくらいいるんでしょうか。ちょっと気になります。
自分は1ミリも迷うことなくNYのほうがいいんですが。
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