【レオス・カラックス監督作】映画『ポンヌフの恋人』①──過去2作との違いと終盤までの考察など【アレックス青春三部作】

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花火と水上スキーのシーン

 そしてこの映画最大の見せ場とも言えるのが、フランス革命200年を祝う盛大な花火が上がるあのシーン。

 男女の恋愛が始まるときというのは、何かしらの小さな奇跡がタイミング良く訪れるものなのかもしれません。

 この日ミシェルは地下鉄で元恋人ジュリアンの弾くチェロの音色を聞いて後を追って電車に乗っていきました。

 それを何とか阻止しようとして失敗したアレックスは橋の上で昼間からヤケ酒を飲んでいます。

 ミシェルはジュリアンの家へ行き、せめて最後に姿を見せてほしいと懇願するも断られてしまいます。するとミシェルはドアの覗き穴越しに突きつけた銃の引き金を引くのでした。

 恐ろしくなって急いで橋に逃げ戻ってきたミシェルは、気持ちが高ぶって興奮状態。昼間から飲んでいるアレックスを見つけるやペットボトルを奪って一気に流し込みます。

 嫌なことを全部忘れたいミシェルはアレックスに一緒に飲んで笑おうとけしかけ、もちろんアレックスはそれに乗っかります。そして完全に出来あがってふたりの奇妙な笑いが響くポンヌフの後ろで、突如始まる盛大な花火の雨あられ。

 

もし、革命記念日のあの喧噪をミシェルがいつもの低いテンションの中で迎えていたら──

 

 おそらくふたりはあそこまで飲んでいなかったでしょうし、そこまでハイにもならず、ただそれなりに祭りを楽しんで終わりだったことでしょう。

 

もし、ミシェルがジュリアンの元へ行ったのが何でもない普通の日だったら──

 

 泥酔するまでアレックスを付き合わせることはありそうですが、やはりこれもそこで終わり、そのまま酔いつぶれて寝てしまうだけのように思います。

 ふたりの内的衝動の高ぶりと祭りの熱気があのタイミングで見事に合致したからこそ、ふたりの関係が大きく進んだのは間違いありません。

 この盛大な祭りは、天涯孤独の浮浪者アレックスと、失恋し視力を失いつつあるミシェルに与えられた一瞬だけの人生のボーナスタイムとも呼べるものであり、そこでふたりは共にそれぞれの生への躍動を爆発させていく──

 アレックスにとってはミシェルと一緒に踊り、騒ぎ、飲み、銃をぶっ放し、ボートで疾走したこのときが人生初めての恋の幸せを感じた夜で、高揚感はMAX状態。

 そしてミシェルは、ジュリアンを本当に殺してしまったのだろうかという疑念が自身の妄想だったと分かり、気持ちの高ぶりからネガティブさだけが抜けてテンションの高さだけが残った躁状態。どちらも怖いものなしの状態なのですね。

 

 

 ↑この動画のコメント欄にはこの花火のシーンで撮影カメラマンをされていた女性による書き込みがあるのですが、本物のスタッフによるエピソードということでなかなか貴重なので引用します。(ほぼ丸々DeepL翻訳したものです)

 

 

あの映画を手がけたのは私です! 冒頭のワイドショットは私のカメラで撮影したものです。50mmレンズ、35mmカラーフィルム。私たちは台の上に立っていたんです。カメラ5台、三脚5本、カメラマン4人、カメラマン1人(私)、カメラアシスタント3人で、7人の男性に押されていました。1990年11月、フランスのモンペリエの近くにあるランサルグで、とても寒い中、夜通しリハーサルを行いました。撮影現場は技術者同士の緊張感がありました。カメラマンの中には、女性の私がカメラの後ろにいることに嫉妬した人もいましたし、この映画が “カルト映画”になることを知って、この夜はタダで働きたいと申し出た人さえいましたよ。この映画が記念碑のようなものだとは思っていませんが、特別な思い出です。

 

 

 ところでこの花火のシーンで、ちょっと「あれ?」と思うカットがありました。

  花火が上がる直前に酔っぱらったふたりが笑いながら地面に寝転がっている場面、よく見るとここでのふたりは飲んでいたワイン?のペットボトルに近いサイズまで身体が小さくなっていました。

 酒ですっかり出来あがっている状態を表していたのかもしれませんが、この小人化のカットはほんの数秒しかなく、その直後の花火が上がるところからはまた元のサイズに戻っているのでけっこう唐突なんですよね。

 自分の見間違いなのか、それともペットボトルみたいな形をしたデカいごみがあったのか、などとしばらく考えてしまいましたが(笑)、歩道の幅やマンホールの蓋(橋の上にもそんなものが?)の大きさなどから、やはり小人化していたようです。

 

 

 あとそのシーンへと繋がる、ミシェルが走って戻ってくるシーンでの粗い画質とカメラのブレなどからは、ミシェルの動揺と高ぶった気持ちが伝わってきますが、こういった手法は次作の『ポーラX』でも見られ、さらには意味合いこそ違うものの画質が粗くなってコマ送りのスピードが変わるというところは前作『汚れた血』のラストシーンでも似たような手法が取られていました。

 そういえばこういう映像はウォン・カーウァイなどもよく好んで使っていたりしましたね。

 

お互いが欲していたもの

 

アレックスにとってはミシェルが全てだったが、ミシェルにとってはアレックスが全てではなかった──

 

 というのは見ていて分かりますし、それはお互いの境遇とかそれまでの人生を考えれば納得がいきますが、お互いのはっきりとした行動(とくにアレックスの)だけでなく、何でもないようなシーンにもそれは表れていました。

 例えばミシェルがアレックスの手紙に応える形で告白をした夜などがそうです。

 二人で夜の街を歩いると地下のクラブから音楽が聞こえてきて、ミシェルが地面に寝そべって窓から中を覗き込んで音楽に合わせて首を振りながら人々の踊る姿を見ているシーンがありました。

 ミシェルはまだ片方の目が見えている今、その目に映るその光景を記憶に焼き付けておこうと必死に覗き込んでいました。そこには説明など必要なく、ミシェルがどのような心境でそれをやっているのかは容易に想像ができる場面です。

 そのときアレックスはどうしていたかというと、なんと彼の足は道路側を向いていたのでした。

 そこにはミシェルのその行動の意味や彼女の心境には全く関心を寄せておらず、ただアレックスの中にはミシェルを好きという自分の気持ちしかない、ということが見て取れます。

 もちろんずっとホームレスの浮浪者として生きてきた(と思われる)アレックスにとってはクラブやそこで流れている音楽などには興味が湧かないというのも納得できるのですが、少なくともここで見えてくるのはミシェルの心情への寄り添いとか共感というものは全く持っていない、ということ。

 そしてその後でふたりはジェットコースターに乗っていましたが、ここでも高い場所から見えるその光景をしっかりと見て全力で楽しもうとしているミシェルに対し、アレックスは両手で目を塞ぎ続けていたのでした。

 ミシェルは「今見ておかなければこの世界を二度と見ることができなくなる」ので、いま目に映るものを全力で見ようとしているのですが、アレックスはミシェル以外には何も興味がないし、怖いものや見たくないものからは目を閉ざして見ないようにします。

 それはミシェルがハンスと美術館に行った夜、ミシェルがいなくなった絶望感から自らの身体を傷付け、翌朝に戻ってきたミシェルを殴ってやり返された後に心を閉ざして目を覆ってしまったのと同じです。

 アレックスは愛した女性への接し方も知らなければ「橋」以外で生きるという考えもありません。ミシェルと一緒にこの橋で暮らす日々が全てであり、それが続くこと以外は何も望んでいないし考えてもいません。

 もうじき瞳が永遠に閉じてしまうミシェルはアレックスに「心を開くのよ!」と叫びますが、アレックスはその言葉を受け入れて簡単に変われるほど楽な人生ではなかったということなのかもしれません。ミシェルと一緒に眠るようになってからも睡眠薬が必要だったように。

 

アレックスとミシェルの変化

 浮浪者だった頃のアレックスは夏の間は坊主頭で上半身は裸と、非常にラフで薄汚い身なりをしていましたが、秋になるにつれて髪も伸び、服もちゃんと着るようになったので多少浮浪者感が薄れてきていました。そしてミシェルが去る直前までは小奇麗とは言えないまでもまぁ普通に見られる格好となっていました。

 ミシェルが去ってすっかり生気を失ってからはまたひどい身なりに戻ってしまうものの、刑務所に服役してからその雰囲気は大きく変わり、歩き方も浮浪者のそれではなくこれまでの2作で見てきたアレックスのようになっていて、ここでようやくいつもの小難しいことを考えてそうなアレックスが戻ってきた、という印象を見る側に与えることになります。いや自分だけかもしれませんが(笑)。

 一方ミシェルのほうはというと、天然のホームレスであるアレックスとは違い、家出をしてポンヌフへと流れ着いた画学生ということからもホームレス独特のヤバい感じはなく、たとえ身なりがグシャグシャでも当初からずっと魅力的に見えました(これについてはパンフレットの中にも同様のことが書かれています)。一切の飾りをなくした、ただそこでその時を生きる姿だからこそ見えてくる美しさみたいなものがあるのでしょうか。

 服は汚れ髪はボサボサ、常に片目に絆創膏が貼られているという風貌であっても、やはりそこは20代のジュリエット・ビノシュ。たとえ前作での神秘的な美しさを表現するような描写と180度違う設定であったとしても、ヒロインとしての美しさは十分に放っていました。

 なお「ホームレスのヒロイン」ということで比較した場合、カラックスの次作となる『ポーラX』のイザベルと今作のミシェルとではかなりの違いがあるように感じられました。作品の内容やシリアスさがそもそも違うということもありますが、今改めてこの2作品のふたりの女性を比べてみるとミシェルのほうはこれでも(いい意味で)まだまだ針を振り切ってはいない印象があります(笑)。

 

【レオス・カラックス】映画『ポーラX』──公開から20年。①映画と原作となった小説との関連について【本棚通信⑦】
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 そしてそれから2年が経ち、目が治り服役中のアレックスの元を訪れたときのミシェルはすでに小奇麗な身なりに変わっていました。

 ですが(結果的に)アレックスを捨てたことへの罪悪感なども含めた影の部分と、一度は去ったもののやはり愛していることに気付いてやって来てしまった女の弱さみたいなものが表情や雰囲気に表れているからなのかは分かりませんが、この時点でのミシェルはまだ以前のトーンを維持していて橋の上にいた頃の面影を残しているように感じられます。

 しかしクリスマスの夜に橋の上に表れたミシェルは、橋の上にいたあのミシェルとは全くの別人になっていました。奇麗に粧し込みシンプルだけど洗練されたファッションに身を包んだ彼女は、クリスマスのパリの街にとてもよく溶け込んでいます。さらに表情も明るく楽しそうで、もうじき失明するという絶望感の中を生きていたあのミシェルと同一人物だとは思えないほどです。

 

 

 そんな奇麗で幸せそうなミシェルですが、なぜか今イチ以前ほどは魅力的に映りません。アレックスに感情移入してしまい、アレックスを捨てて消えたからそう感じるのでしょうか。もちろんミシェルの心情を思えば責めることなどできないはずなのですが──

 

奇麗な洋服、装飾品、お金、品のある振る舞い、贅沢な食事、家、安全、保証された生活──

 

 なんだか『トレインスポッティング』のラストみたいなフレーズの羅列となりましたが、こういったものがごっそり削ぎ落とされ生身の感情だけでアレックスと愛し合った橋の上でのミシェルに、私たちは美しさを見ていたのかもしれません。

 

 というわけでレビューの前半は以上となります。後半はこちら↓

【レオス・カラックス監督作】映画『ポンヌフの恋人』②──エンディングについて、そして橋とポエムとアレックスのアレ【アレックス青春三部作】
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