【社会の縮図】映画『プラットフォーム』レビュー①──層の数字、名前の由来、本、ダンテ、ゴレンとミハルの関係【結末の考察】

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 今月初めにNetflixで見たスペイン映画『プラットフォーム』は前から気になっていた作品でした。本当は『ミッドサマー』の配信が始まる前(2021年9月9日に劇場公開版が配信開始)にUPしようと思っていたのに、手をつけるまでずいぶんかかってしまいました。

 そしてようやく書き始めたと思ったら今度はかなり長くなってしまったので、今回は映画の考察系のレビュー①と、多くの方が気になったと思われるミハル役の女優についてと映画の中の人種差別についてを書いたレビュー②とに分けることにしました。

 

 

 このレビュー①では、主に次のような構成で書いています。

❶映画の設定が意味するもの

❷登場人物の解説と名前の意味

❸ミハルの存在と役割、ゴレンとの関係

❹ラストの解釈と考察

 

【ミハル】映画『プラットフォーム』レビュー②──内容とは別に気になった2つのこと【人種差別】
...

 

<追記:2022/7/22>

※Googleからこの記事(正確には3ページ目)が「衝撃的なコンテンツ」という理由でポリシー違反と判断されたため、一部伏せ字にしたり表現を濁したものに変更しました。映画の内容を書いているだけなのでこれまでずっと手をつけずにいたのですが、そのままにしておくと色々と都合がよくないようなので修正させていただきました。

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この空間は現実世界の縮図

 この恐ろしい縦穴式の収容施設は、言うまでもなく私たちが生きているこの現実世界を構成するピラミッド型社会のメタファーとなっています。

 ピラミッド社会の上層部にいる人間は多くの富と権力を持ち、彼らは自分たちが手にするものを下々の民衆へ平等に分け与えるようなことは決してしません。それをしてしまったらピラミッド社会の上にい続けられないことを知っているので。

 そうなると当然ピラミッドの下へ行くにつれ、人ひとりが得られるものの質と量は落ちていきます。食べ物も身に着ける物も得られるサービスも全てです。人口は多くなっていくのに質と量はそれに比例しません。

 映画の舞台となっているこの謎の空間(牢獄)では「上から人が与えられるもの」はここで生きるために必要な「食べ物」という一点に集約されて表現されています。「それ以外」としてそこにあるのは各々が持ち込んだ物1点だけです。

 この空間は現実世界を構成するシステムの不具合や不誠実さを表していますが、どちらかというと資本主義ではなく社会主義や共産主義のシステムに近いものがあります。(トリマガシも最初に「共産主義」という言葉を使っていました)

 この映画の世界で、支配している側(ここでは管理者)が想定/提示している理屈とは

 

収容されている者全てに行き渡る食べ物を用意している。だから皆が自分が受け取る分だけを取れば何も問題はない。だからこのシステムは正しく、もしそうなっていないのだとしたら間違っているのはそれを受け取る者たちにある──

 

 というもの。

 

 

 ここに収容される者は皆面接で「好きな食べ物」を聞かれます。

 そこで答えた食べ物が毎日あの台座に並べられます。全ての収容者たちが「自分が申告した食べ物だけ」を受け取りさえすればこのシステムは問題なく機能し、誰も飢えることはありません。(もちろん毎日それだけを食べていても身体を壊すのでしょうが…)

 ですがもちろん、そんなルール(しかもそれは決められてはいない)を守る者はほとんどおらず、台座から降りてきたものを2分間という限られた時間の中で必死に食べまくります。当然、食べ物は足りなくなり層の半分にも満たない時点で全て食べ尽くされてしまうことになります。

 そして食べ物が届かない下層の者たちは飢えに晒され、そこでは生存のために「同じ層にいる者を56してその肉を食べる」という地獄絵図が展開されることに……。

 

 

 さらに醜いことに、ここに収容されている者の多くが自分本位で、他者(自分よりも弱い立場の者=自分よりも下にいる者)への優しさをほとんど持たず、ほとんどが下層での現実を知っているにも関わらず

 

自分だって上にいる奴らに同じことをされている。だから下の奴らに同じことをしてもいい

 

 と考えており、まっとうな道徳心を持っていません。

 

 何という不毛な世界でしょうか。

 

 海外の解説系YouTube動画やブログを見てみる※と、この謎の施設と、ここで起きている惨状をダンテの『神曲』地獄篇における地獄の世界と関連づけて考察している人が結構いるようでした。

(※今回も映画に関する日本語での情報はWikipediaしか見ていません。理由は何度も書いていますが無意識にでもパクらないようにするためです。外国語で発信している情報については参考にしていることを明記したうえで使わせてもらっています)

 

 そう言われてみると「上に昇りたい」と訴えたバハラトに対して

 

「¿Para qué quieres subir?」(何のために上に上がりたいんだ?)

 

と5層の男が質問してきて、それにバハラトが

 

「¿Para qué? ¡Para salir de este puto infierno!」(何のため? このくそったれな地獄から出るためさ!)

 

 と「地獄」という単語を使って答えていました。ここで「地獄」(Infierno=インフィエルノ)という言葉を使うのは別におかしくないと言えばおかしくないんですが、なんとなく意識的に使われているように聞こえなくもないという。。。後のほうで書いていますが、映画の中で何度も出てくる単語「クソ」(mierda=ミエルダ)を使って「このクソみたいな場所から」みたいな言い回しもしていても不思議じゃないと思うので…。

 

 

 そのバハラトの返答をふまえての、5層の男との「神を信じるか?」「ああ、神を信じている」という流れになっているので、やはり意図的に「地獄」という言葉にしているのかなと。

 

 と、そのようにこの空間はたしかに下層へ行くほどに過酷な世界となる地獄のような場所ですが、そういった「地獄」を創り出しているのはこの社会を構築した支配者層だけではなく、そこで苦しんでいる者たちもまた、この空間を自らの行いによって地獄にしてしまっていることに彼らのほとんどは気付いていません。

 現実の世界では日々争いが絶えず、不満を持つ者たちが暴動や略奪を起こしたりしています。そういった社会を作ったのは支配者層ですが、実際にそれを行うのはイモギリが信じていた「連帯感」を持たない利己的な人間、トリマガシのように自分の置かれている状況を受け入れ、そこに順応するが他者への思いやりは持たない人間たちなのです。

 

 132層でトリマガシに縛られたゴレンが言います。

 

「俺はあんた自身の選択だと思ってる」

「上のやつらや環境のせいじゃない」

「ここの管理者のせいでもない」

 

 たしかにこの状況は酷い。でも人として正しくあろうとするか狂うことを選ぶかは自身の判断──ということでしょうか。

 もちろん、その地獄を体験していない者がそれを言っても何の説得力もないのでしょうけど……

 

 

登場人物が投影しているものと、彼らの名前の意味

 この謎の空間だけでなく、主人公ゴレンをはじめとする登場人物たちもまた現実の社会に存在する人々のメタファーとなっていて、彼らにはそれぞれ(社会の縮図のようなこの世界での)役割があるように見えます。

 また、これは英語版のWikipediaや海外の認証マーク付きアカウントが発信しているYouTube動画でも言われていることですが、それぞれのキャラクターの名前には由来というか元ネタがあるらしいです。例えばミハルの名前は

 

単にアジア人だからという理由で日本人女性の名前を付けた

 

 だけだと思っていたら違う意味があるようです。もちろん日本語由来ではあるのですが。

 というわけで以下、英語版Wikipediaより一部編集して引用します。

 

Goreng(ゴレン)→インドネシア語/マレー語で「揚げ物」を意味するgorèng(ゴレン)から命名

Trimagasi(トリマガシ)→インドネシア語/マレー語で「ありがとう」を意味するterima kasihから命名

Imoguiri(イモギリ)→インドネシアのジャワ王家の墓地にちなんで命名

※……と書いてあるのですが、とある海外の考察動画を元に自分でも調べてみたら「ヒマラヤ山脈」を意味するヒンディー語の「Himagiri」から来ているのでは、という情報もありました。この動画は後半に貼っておきます

Baharat(バハラト)→中東、トルコ、ギリシャの料理に使われる、アラビア語でスパイスを意味するBaharatから命名

Miharu(ミハル)→日本語で「見張る、見守る、目を見開く」という意味を持つ「見張る」から命名

 

 なぜインドネシア語由来の名前が多いのか謎ですが、ミハルの由来は予想外でした。「ミハル」っていったら昭和世代のおっさんには

 

カタパルトの脇にレバーがあるんだろ?

 

 のあのミハルが最初に思い浮かんでしまうのですが、別に監督がファーストガンダムのファンだったというわけではないようですね(笑)。

 

 話を戻して、それぞれのキャラについて見ていきます。

 なお、人物名の横にあるアルファベット4文字はMBTIによるパーソナリティです。(データベースサイトより)MBTIのことをご存知ない方は無視していただいて全く問題ありません(笑)。

 

データベースのサイトはこちら

https://www.personality-database.com/

 

ゴレン(INFP)

 犯罪者ではなく、必要な認定証をもらう目的で自らの意志でここへやってきた男

 真っ当な倫理観を持ち、正しくあろうとする。この収容所のシステムを変えるべく「革命」を起こすが、その方法は自衛の意味も含めて暴力を必要とするものでもある。

 

 またゴレンが持ち込んだ物についても意味があります。彼が持ち込んだものはスペインの作家セルバンテスによって書かれたあの有名な『ドン・キホーテ』でした。

 

 『ドン・キホーテ』とは、騎士道の物語を読み過ぎて現実と空想の区別が付かなくなったラ・マンチャ地方に住む50歳ほどの郷士が、自身を騎士だと思い込み、騎士道精神がなくなってしまったこの世の不正を正すため痩せ馬ロシナンテに乗り、農夫サンチョ・パンサを従えて旅に出るという物語。

 

 333層で女の子にパンナコッタを与え、美味しそうに食べる様子を見て微笑むゴレンとバハラト。その夜にゴレンが読んでいたのが

 

El grande que fuera vicioso, será vicioso grande y el rico liberal será un avaro mendigo. Que al poseedor de las riquezas no le hace dichoso tenerlas, sino gastarlas. Y no el gastarlas como quiera, sino saberlas bien gastar.

悪意のある偉い人は悪意のある偉い人になり、金持ちの自由人はみすぼらしい乞食になる。富を持つ者は、それを持つことが幸せなのではなく、それを使うことが幸せなのです。そして、自分の意志で使うのではなく、上手に使う方法を知ることです。

 

 という『ドン・キホーテ』の一節。

 そして最後にこの空間の最下層(そこはおそらく現実ではないが)に辿り着いたゴレンにトリマガシがかける言葉もまた『ドン・キホーテ』からのものでした。

 

Juntos salimos y juntos peregrinamos, una misma suerte y una misma fortuna correrá para los dos.

共に旅立ち、共に巡礼し、同じ運命、同じ幸運が二人に降りかかる。

(Netflixでの翻訳はこのようになっています)

我々は共に発ち、共に旅をする。我々は運も財産も共有し、分かち合う。

 

 

 さらに重要な考察として、このゴレンという男は、イエス・キリストのメタファーだとする海外の解説も幾つか目にしました。

 これはたしかに映画の中で聖書の言葉が出てきたりするので納得できますし、ゴレンの見た目も絵画などにみるイエスの顔と似ているように感じられなくもありません。

 

 ゴレンは結果的に、トリマガシとイモギリのふたりの肉を食べることになります。

 

 トリマガシが言う「私がお前の中にいる、と同時にお前は私の物でもある」という言葉の通り、ゴレンの前にふたりは幻想となって現れるようになります。

 そこで幻想となって現れたイモギリがゴレンに対して言うのが、聖書の中の「ヨハネによる福音書:第6章」の一節です。映画に出てこない部分の節も含めて、関連する箇所を引用します。

 

よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である──

ヨハネによる福音書:第6章47~51

 

 

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終わりの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる──

ヨハネによる福音書:第6章54~56

 

 またこのときイモギリはゴレンのことを「彼は救世主」と言っていました。このことからもゴレンがイエスのメタファーであるというと考えることができます。(もうひとりゴレンに対して「救世主」という言葉を使った者がいましたが、それについてはレビュー②のほうで触れます)

 そしてゴレンがイエスのメタファーだと考えた場合、聖書に登場する人物のメタファーが実はもうひとりいるということが考えられるようです。

 私はその人物のことをどう捉えればよいのかずっと分からないでいました。ですがやはりこれも海外の方が考察したレビューを読んで(全面的にではないものの)なるほどな…とかなり腑に落とすことができたのでした。それについてはこのあとその人物の解説部分で触れます。

comment

  1. てち より:

    FACTFULNESSという本を読んだばかりだったので映画の階層の表現に深く感慨を覚え、さらにこちらの考察を拝見して深まりました。内容はもちろん、話の流れがわかりやすかったです!MBTIを混ぜてるのもわかりやすかったです。他のレビューも参考にさせて頂きます!

    • ありがとうございます!そのように言っていただけてすごく嬉しいです。
      この映画に関しては海外の動画やブログなどの考察をかなり参考にさせてもらいましたが、そういうのを見ては「よくもまぁそんなところに気がつくもんだ」と感心してばかりでした。
      自分はINFJなので隠された意味だとか何のメタファーなのかといったことについ目がいってしまうのですが、思考タイプのような知識量も頭も良さも持っていないので全て自力で書き上げるのは難しかったみたいです(笑)。

  2. 通行人 より:

    昨日Amazonプライムで観て消化不良部分を解消したくてここにたどり着きました。
    この映画、非常に面白かったです。
    私の感想だと結末の可能性は3に近いです。
    ・女の子は存在した(管理者が意図的に入れた)
    ・人を殺しても上の層には行けない(下層に刀を持った荒くれ者がいるので成立しない)
    ・ミハルの子ではないが彼女は子供を保護していた(野蛮な男の餌食にされないため)
    ・女の子の存在を知ったのは偶然かもしれないし、管理者の意図かもしれない
    ・あの施設は刑務所であり実験所でもある
    ・犯罪者だけでは事態が動かないので一般人も参加させられるようになる
    ・自分の好物または1皿分だけ食べれば生き残れる(または2日に1度とか3日に一度に減らす)
    ・人を殺したものが上の層に行けるのではなく試練(生きる努力をするとか?)
    ・毎回ミハルが上から下りてきたのは最下層まで行ったから
    ・最下層まで行ってすべてを見た者が上層に行けるルール(天国から地上に生まれた神の子イエスの再現)
    ・0層のパンナコッタシーンは料理だけ残しても理解されないって言う暗示
    ・何故なら施設の内情は知らされていないから(イモギアも知らなかった)
    ・女の子はパンドラの箱の希望(子供は参加できないルールなので0層で気づいてもらえる)
    ・希望なので最悪気づいてもらえない可能性もあるがゴレンが起こした一石で変化は起きるかもしれない。
    ・ゴレンは333層で死んでいる(十字架で磔刑になったキリストと同じ)
    ・最後は希望を胸に死んだゴレンの魂の世界というか幻想
    もっと時間をかけて情報収集していたら協力者も増えて生きて期限を終えられたのだろうか?・・・

    • 大変興味深い考察、ありがとうございます!内容の良し悪しはもちろんのことですが、見る側に考える余地を多く与えている映画は色々な解釈ができて面白いですね。
      いただいたコメントを読んで、この映画が私たちが暮らすこの社会を投影していることと、その世界にキリスト教の解釈が大きく関わってくるストーリーになっているということを改めて感じさせられました。

      > ゴレンが起こした一石で変化は起きるかもしれない。

      というポジティブな可能性を見出す考察は完全に同意します。きっとそこが映画の重要なポイントのひとつなのでしょうね。

      <以下は完全に蛇足です>
      あとこれを書いた時点ではそれほど現実味がなかったことですが、現在世界中で騒がれている食糧危機の問題やグレート○セット後の世界なんかも何気に投影しているような気もしますし、さらに調子に乗ってオカルト的要素とか聖書予言、はたまたマッドフラッド界隈の考察も交えて考えてみると「地下に何かある/いる」という暗示も含まれていたりするのかも……なんてふと思ってみたり。。。

      • 通行人 より:

        興奮冷めやらないままに書き込んでしまい恥ずかしい限りです。
        見た直後に浮かんだのは、地獄の餓鬼道の話し。
        御馳走がたくさんあっても食べられないんだけど、長いお箸でお互いに食べさあうって言う。
        仏教的な考えは制作側には無いだろうとすぐ忘れましたが(苦笑)

        地下にあるもの、地下資源(海洋資源)くらいしか思いつきませんでした。
        いろいろ考えさせられる映画ですね。

        • そんな、とんでもないです〜。
          映画を見てから結構経っていることもあって今イチ的を得ない内容になってしまいほとんど削除してしまったのですが、当初はかなり長い返信を書いてしまったくらいですから。なのに削除して付け足したのが一番わけのわからない怪しげな内容というダメさ加減…。大変失礼しました(笑)。

          そう言われてみるとあの空間で繰り広げられていることはまさに修羅道や餓鬼道の世界観といった感じがしますね。。

  3. 映画考察初心者 より:

    すごく面白く考えさせられる映画だったんですが、パンナコッタと女の子と、途中の管理者がパンナコッタを持って怒鳴ってる場面が結び付かず、悶々としてたところたどり着きました。

    最後の二人の満足そうな笑顔は、私も涙しましたし、「革命への勝利」に同意です。
    「ゴレンは死に、女の子は存在せず、パンナコッタは0層に届けられた」このフレーズがすごくしっくりきました。

    読ませていただいて、もう一度物語を振り返ると、こちらも気になってたんですが、ゴレンがもらえるはずだった「認定証」は「救世主の認定証」なのでは?と。

    人は昔から生きながらにして神を目指そうとして上を目指しては蹴落とされ、蹴落とされてはのし上がるという輪廻転生を繰り返し(階層が変わる)、革命を起こした二人がたどり着いた先は、欲望のない心=純真無垢な子供(女の子)。子供が1番神に近い存在だが、残酷にもゴレンは同時に最期を迎える。結局のところ生きながらにして神に近づく事は不可能(ゆるされない)だと伝えられてるようにも感じました。
    ここの囚人は、罪というよりは我欲を落としていくこと、我欲を無くせば自然と神に近付くという人生そのものをあの狭い空間で描いてるように感じ圧巻。

    ※試練というか、何か(弱い者)を守るために命を投げるという行為の先に称号のようなものが与えられるようなところが「パンズラビリンス」と近いものを感じました

    そうなると、人間の思考(好きなものを聞かれても食べたいだけ食べて残らないことや、ゴレンたちが分け与えるために守り抜いたことも)と神(0層)の意図とズレが生じてるからこそ、途中のパンナコッタに付いていた髪の毛のシーンも描写されてるのかな、、なんて。

    キリスト教を知らないと、シュールな囚人同士のざん〇つ映画だな、と思いましたが最初から最後まで考えさせられる映画でした。

    こちらに辿り着くことが出来たおかげで、自分の中の考察も広がりました。

    ものすごい細かなところまで調べてまとめてくださってありがとうございます。

    • すごく考えさせられる考察、ありがとうございます!
      コメントをいただく方々の考察は皆とても面白くて、私も新しい気付きを得られて嬉しい限りです。

      たしかに人はこの世で高みを目指してもがくものの、根本的なやり方やそもそもの目指す姿を間違えてしまう生き物なのでしょうね。人間の思考と神の意図とのズレ…全くもって仰る通りだと思います。
      また「たどり着いた先が純真無垢な子供」という解釈も、すごく腑に落ちます。崇高な目的(とふたりは思っている)を達成するために人を威嚇し傷つけて333層までやってきたふたりにとって、あの女の子がいわば最終試験のようなものだったのかもしれませんね。書いていただいたように、ゴレンが欲しかった認定証が何なのかが説明されていなかったことにも繋がってくるんだとしたら本当に深い作品なんだなぁと…。
      通行人さんのコメントにあった「ゴレンが起こした一石で変化は起きるかもしれない」といった「その後に起きることの可能性」などの考察と合わせてまた新たな視点を教えていただけて、本当にありがたく思います。

      そして『パンズ・ラビリンス』!あれも本当に切ない映画でしたが、最期にあちらの世界(天国?)に迎え入れられて全てが報われたと信じたいです。

      仏教とか神道の世界観が浸透している日本と違って、西洋はキリスト教に基づく倫理観とか死生観がベースになっているのかもしれませんが、現実社会はそれこそ矛盾と不道徳だらけで、自分たちもそれをよく解っているからこそ、そのことに心が囚われているのかもしれないですよね。

      こちらこそ、より深い考察を教えていただきありがとうございました!

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