昨年、上映時間3時間56分の“完全版”『牯嶺街少年殺人事件』4Kレストア・デジタルリマスター版が公開されました。92年に日本公開されたときの3時間8分バージョンを(おそらく98年のリバイバル上映で)一度観たきりだったのでこれは是が非でも観に行かねばと思い、連日雨続きだった昨夏、急な土砂降りに遭ってずぶ濡れになりながら行ってきました。
観てからずいぶん経ってしまったこともそうですが、何よりこの作品について語ろうとしたら上映時間同様、長くなってうまく書けないので別の視点でまとめてみることにしました。とは言ってもこの視点から『牯嶺街少年殺人事件』について思い返して考えてみるのもなかなかに興味深く、レビューや感想とは違った面白さがあると思うのでそれが伝わるように書けるといいなと…
今回、引用させていただいたのは
雑誌『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン/1992年3月号』
チラシ『牯嶺街少年殺人事件』(1998年・シネ・ラ・セットでのリバイバル上映時のもの)
チラシ『牯嶺街少年殺人事件』(2017年・4Kレストア・デジタルリマスター版上映時のもの)
パンフレット『牯嶺街少年殺人事件』(2017年・4Kレストア・デジタルリマスター版上映時のもの)
以上の4点です。ちなみにこの『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン/1992年3月号』は、表紙が『美しき諍い女』、特集している作品は
ヴィム・ヴェンダース『夢の涯てまでも』
レオス・カラックス『ポンヌフの恋人』
ウォン・カーウァイ『欲望の翼』
エドワード・ヤン『牯嶺街少年殺人事件』
ジャック・リヴェット『美しき諍い女』
…なんでしょうか、このぐぅの音も出ないようなラインナップは。
2017年版の企画宣伝、パンフレットの中身がとにかく素晴らしい
90年代に見たときには、自分が若かったこともあってこの物語の背景だとか、主人公の小四がなぜあのような行動に走ってしまったのか、についてよく理解できていなかったように記憶しています。
でも今回改めてカイエ・デュ・シネマの1992年3月号や98年リバイバル公開時のチラシと、2017年版のチラシとパンフレットを読み比べてみると92年、98年の文献・資料もまたこの物語の本質をズバッと突いてはいないように感じました。
逆に言うと昨年の2017年版は宣伝コピー(「この世界は僕が照らしてみせる。」)やパンフレットに書かれた解説・レビューがことごとく素晴らしいということでもあります。
もし2017年版を観に行ったけどパンフレットは買っていない─という方も、おそらくどこかのミニシアターでまだ上映する機会があるのではないかと思いますので、興味がありましたらぜひそこでご購入いただければと…。個人的にはある程度解ったつもりでいた当時の台湾の時代背景なんかも、パンフを読むことでより理解できて、それぞれの場面での登場人物の焦りや不安、苛立ちや熱気みたいなものが一層伝わってきたように思います。
98年・17年のチラシを比べてみる
この2つのチラシのキャッチコピーを見ても17年度版がより核心を突いていることがわかります。もちろん、ネットも含めて全ての情報が今よりずっと少なかった98年と現代のものを比べるのは無理があるというのは百も承知ですが…
98年リバイバル時のチラシ
【メインキャッチ】
“怖くないよ ずっと一緒だよ 守ってあげる”
“わたしはこの世界と同じよ 変わるはずがない”
【サブキャッチ】
鮮烈な夏の一夜。淡い恋心とは裏腹にスーが手繰り寄せる結末は…。
2017年デジタルリマスター版のチラシ
【メインキャッチ】
この世界は僕が照らしてみせる。
【サブキャッチ】
エルヴィス・プレスリー、西部劇、「戦争と平和」。
海外文化に憧れる少年たちはもがきながら、必死に生きていく。
自分たちの手で未来は変えられると信じて──。
古い記憶なので最初に見た当時、自分がどれだけ分かっていたのか怪しいのですが、2017年版を観て当時の台湾の情勢と中国から逃れてきた国民党の外省人である親世代が抱えていたもの、そしてそれらを敏感に感じ取りながら生きていた少年たちの、爆発しそうなところでぎりぎり保っている思春期ならではの何か熱気のようなものがより伝わってきたように感じました。
親たちは、国民党が中国で復権できれば自分たちがまだ中国に帰れると思っていて、こんなところで落ちぶれた生活をしているのが惨め、という気持ちで日々過ごしている。そして(中国の)共産党のスパイ容疑がかかるかもしれないことに心中穏やかではなく、実際に小四の父親が連行・監禁されることとなる。
親は中国人として日本と戦ったのに今は台湾で日本家屋に住んでいて、自分の部屋がない小四は押入れの中で寝ていて、そこが家の中で唯一の自分だけの空間となっている。押入れの襖を閉めても家族の話し声は聞こえてくるし、戒厳令下の台北はいつもピリピリしていて少年たちも別の縄張りの不良グループとの抗争が絶えない。
そんな閉塞感や息苦しさの中で生きる小四が見つけたものがあの大きい懐中電灯であり、暗く窮屈なこの世界を照らすことができる唯一の防具としてのメタファーでもあった懐中電灯のことを、以前に見たときにちゃんと解っていたのか、ちょっと自身がありません。。
最後に、唯一自分を守るものであり、自分の見る先を照らす唯一の光であった懐中電灯を手放してしまい、照らしたいものを照らす術を失ったそのかわりに、逆に照らすべき灯り/明り=小明の光を消してしまう武器となる小太刀に持ち替えてしまった小四の過ちが悲しいわけですが、2017年版のキャッチはそこを非常にうまく引き出しているように思いました。
十分すぎるくらいに年を取ってしまった私たち大人は「どうして…」とつい思ってしまうけれど、でも14歳の少年ってこういうものだろう、ということは自身の経験からよく知っているし、何よりここに至るまでの約3時間半の流れを見ているので「いったい誰が小四を責められるっていうんだ?」というどうしようもなく切ない気持ちになるわけです。「誰も小四を責められないだろう?」というのを説明するために3時間56分という長さが必要だったのであり、その切なさや悲しさの鍵となるセリフが2017年版の「この世界は僕が照らしてみせる。」なのではないかと思うのです。
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