共通するふたつの要素
また今作では「すれ違い」と「入れ替わり」の他にも、両パートを通じて「共通するふたつの要素」といったものもたびたび登場します。
・メイという名前の女
・男が女の足を触るシーン
・金髪のかつらを被った女
・スチュワーデス
・警官
・パイナップルの缶詰や搭乗券の「期限切れ」
・雨の日の男
・ふたつの「カリフォルニア」
などなど。
金城武が話す四つの言語
前半パートは、その役柄のため(かつらにサングラス、極端に少ない台詞など)ほとんど顔も分からないキャラクターだったブリジット・リンとは対照的に、金城武のほうは登場シーンではナレーションも含めて喋りっぱなしといった感じでした。
彼は四ヶ国語を話せるということで、広東語のほかに北京語、日本語、英語で会話するシーンが2度あって、当時は「おぉっ!」と思ったものです。広東語と北京語の違いはさっぱり分かりませんでしたが(笑)。
以下がそのシーンです。
2人目のメイにもフラれたあと「MIDNIGHT EXPRESS」の前で3度電話をかけるシーン
▶︎1度目は広東語で
▶︎2度目は日本語で
▶︎3度目は北京語で
バー「BOTTUMUP」で“金髪の女”に「パイナップルは好き?」と四度質問するシーン
▶︎1度目は広東語で
▶︎2度目は日本語で
▶︎3度目は英語で
▶︎4度目は北京語で
ちなみに、パンフレットに載っていたインタビューによれば、電話で日本語を話すシーンで監督が考えてきた台詞は
「覚えてる?寿司食ってお腹壊したモウだよ」
だったとのこと。
で、結局あのような台詞になった理由は
「でもそんなの面白くないんで変えちゃった。どうせ何言っても、監督には分からないから(笑)」
なのだそうです(笑)。
また言語についていえば、同じくパンフレットに書かれていた注釈に次のような説明もありました。
日本公開される『恋する惑星』は監督自身が最終版として認めた“インターナショナル・ヴァージョン”でロカルノ国際映画祭をはじめとする各国映画祭で上映したもの。フランス、アメリカほか海外(香港・台湾以外)では基本的にこのヴァージョンで公開。このヴァージョンで、モノローグの部分「モウの声」と「金髪女の声」は北京語(國語、標準語とも表記)、「633の声」と「フェイの声」は広東語。UCLAでこの違いについての質問を受けたウォン・カーウァイによると、「香港の町では、実際にいろんな言語が飛び交っている。別に深い意味はありません」
だそうです。
なるほど、わからん(笑)。
雑誌とパンフレットに掲載された監督へのインタビューより
雑誌『CREA』1996年1月号より、監督へのインタビュー部分の引用
今作のふたつのパートは、それぞれ全く違う雰囲気の作風で撮られていることは見ている側にも容易に伝わってきますが、それについて監督がインタビューで語っていたのを一部引用します。
──『恋する惑星』でブリジット・リンが演じた、白いドレスに金髪でサングラスの女も、完全に犯罪映画のイメージでしたね。
『恋する惑星』の前半では、フィルム・ノワールの味わいをかなり意識した。ついでに言えば後半は、60年代のミュージカル映画、例えばジャック・ドゥミの映画なんかが基調になっているんだ。それでブリジット・リンだけど、彼女はジーナ・ローランズのイメージなんだ。
※フィルム・ノワールとは
虚無的・悲観的・退廃的な指向性を持つ犯罪映画 を指した総称(Wikipediaより)
※ジャック・ドゥミとは
『シェルブールの雨傘』『ロシュフォールの恋人たち』などで知られる映画監督
「ある一晩の間に起きた出来事」を描く小説や映画が好きな自分としては前半パートも決してつまらなかったとは言いませんが、やっぱり後半パートで描かれる魅力的な香港の賑々しさやエンディングの多幸感こそがこの映画の良さではないかと思ってしまいます。
パンフレットより、監督へのインタビュー部分の引用
多くのメディアやファンがこの作品について、色々な共通項を探してみたり様々な解釈をしてみたりしていたようですが、それについて監督が語っていたことを一部引用します。
全ては映画が単純であったからこそ出来たことです。香港、台湾でこの映画が封切られたとき、僕には予想外の反応が返ってきました。
観客たちがこの映画をポストモダン・シネマだとか、複雑難解で暗示的な作品だと考え、個々の場面の意味を解釈しようとしたり構造を分析しようとし始めたのです。
でも、僕はそんな事を意図してこの映画を作ったんじゃありません。可能な限り単純でリニアに発展していく物語を語ろうとしただけです。
そしてそれを順撮りで撮っていく。そうする事によって、日々臨機応変に撮影を進めていけたのです。
たしかに前半のパートと後半のパートの関連を考えるのは興味深いことかもしれない。僕も、後になってこの二つの話には一枚のコインの表と裏みたいな関係があるのに気づかされました。
でも語ろうとしたのは、単に同じある一つの街で、あるいは香港という同じ一つの森で、ほぼ同じ時間に、こんな事をしている人もいればあんな事をしている人もいるというだけの事なのです。
だからけっして分析しようとか、意味を解釈しようとかしないでほしい。僕にとって『恋する惑星』は、一つの街や森の中でどう人生をエンジョイするかという、ただそれだけの映画なのですから。
すれ違いがどうとか入れ替わりがどうとか、余計な詮索しないで素直に楽しめばいいんだよ、ってことですかね(笑)。
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