原作について
『ポーラX』は、主人公がひたすら内側へ内側へと向かっていく(そして堕ちてゆく)展開や、やや厨二病的な世界観、そして内戦から逃れてきた難民という設定や得体の知れない集団の登場など、やや現実離れした印象がある作品なため、良くも悪くも「レオス・カラックス的」な映画と言えるようなものでした。何も知らないで見れば、どこからどう見てもカラックスのオリジナルストーリーの映画だろうと考えるのが普通、という作品です。
ですが、ここまで“レオスそのもの”といった映画であるにも関わらず、実はこの作品には原作となった小説があり、時代背景こそ違えど、内面的部分でいえば原作にほとんど忠実に作られたものであったのです。
原作となったのは『白鯨』で知られるハーマン・メルヴィルが、その『白鯨』の翌年に発表した小説。当時世間では全く理解されずに「狂気の書」との烙印を押された『ピエール』(原題は『PIERRE ; OR, THE AMBIGUITIES』ですが、フランス語の題名は『PIERRE ou les ambiguïtés』で、このフランス語の題名の頭文字「Pola」に、10番目の草稿であることを表す数字「X」を加えたというのがタイトルの由来とのこと)という作品です。
状況や舞台の設定・説明がとにかく都度長いのと、登場人物のセリフがいちいち戯曲めいた過度な装飾が施されているため、当時(20代後半・小説はそこそこ好きだったが純文学はほとんど読まない)の自分にとっては読み進めるのは難儀でしたが、それでもとにかく映画にハマっていたので3日間で完読しました。
読んでみると、映画と原作のあまりのシンクロぶりに驚かされたのですが、同時にこの原作のエモさが映画に全く引けを取らない熱量を持っていることに興奮を覚えたのでした。
自分にとってこの『ポーラX』のイザベルは、20年が経った今でも忘れられない映画の中のヒロインですが、原作『ピエール』のイザベル・バンフォードという女性もまた、思春期の少年が漫画やアニメのキャラクターに恋する感覚にも似た、心奪われるヒロインとなったのでした。
カラックスと『ピエール』
冒頭の爆撃シーン、登場人物の設定や主人公たちの行動、そしてひたすら悪い方向へ堕ちてゆくという「ある意味フランス映画っぽい」展開に
「なんだか大袈裟で無理矢理だなぁ」
と思ってしまいそうなところですが、
「だがそれが(レオス・カラックスらしくて)いい」
と受け入れてしまうのがファンの心理というもの。
ですがそんな忖度をする必要はそもそもなくて、この映画のストーリー展開はほとんどが原作通りだったのです。しつこいですが実に驚きです。
レオス・カラックスが19歳の時に初めて読んで「これはぼくの本」と感じ、それ以来ずっと自分の中にタブーとして存在していた物語であり、あまりにも大切な本だったので「映画にはすまい」と考えていたという物語だけあって、私たちが「レオス・カラックスらしい」と感じるものの原点はこの『ピエール』にあったのかもしれません。
レオス・カラックスは、3人の姉がいる末っ子として育ったために「姉」という存在が人生に大きな影響を与えているようで、月刊『Cut』1999年10月号のインタビューで次のように語っています。
「(しばらく考えて)ぼくは3人の姉に母という、女性ばかりに囲まれて育った……。 (中略)結局、ピエールとイザベルは同じひとりの人間だと思うから。
ぼくはいつも、姉(妹)という言葉はフランス語でもっとも美しい言葉だと思っていた。姉(妹)というのは自分のルーツにいる人であり、最初の可能な愛の対象である、と同時に不可能になってしまう対象でもある。われわれが成長するにつれて法を学び、そこでは近親相姦は罪とされているからだ。もちろんぼくはここで、特に自分の姉妹のひとりを指して語っているわけじゃなくて、われわれにとって一般的に姉(妹)という意味で言っているんだよ。ぼくにとって重要な概念は……(長い沈黙)……人間にとって姉(妹)という概念は、ぼくにとってはたとえば両親のそれよりもずっと身近なものなんだ。ぼくは映画のなかで父親を扱ったことがない。母親は今回初めて登場する。というのも、原作に登場するからね。で、ぼくの作品ではすべて、女性は魂の伴侶として描かれている。つまり魂の亡霊であると同時に姉、すなわち生きていて自分のルーツから共にしている人。同じ問いを共有し、同じところからやってきて、そのルーツの深みからわれわれの前に現れる人だ。ぼくにとってイザベルはピエールの姉であり……ぼくが姉妹というときは、妹よりむしろ姉のことを考えている……」
(※なおこの19歳のときに読んだという話は、実は事実ではないということが助監督のインタビューにて語られています)
小説『ピエール』との相似点
「この映画の展開のほとんどが原作通りである」と先に書きましたが、では一体どのあたりが原作に忠実もしくは原作通りなのか、という箇所を以下に挙げておきます。細かくみるともっとありますが、おおよそこんな感じです。
・郊外の自然に囲まれた場所に暮らす裕福な親子。ひとり息子のピエールは美しい未亡人の母を「姉さん」と呼ぶ
・ピエールにはリュシー(小説では英語名なのでルーシー)という金髪・碧眼の美しい婚約者がいて、ふたりは幸せそのものである
・ピエールが夢に見るという黒髪の女の存在にルーシーは不安を感じていて、「隠し事はしないで」と強く迫る
・ピエールには歳の近いいとこがおり(映画ではティボー、原作ではグレン)、彼は密かにリュシーを愛している
*********
・イザベルという長い黒髪の女性が現れる
・イザベルの独白──不幸な生い立ちと、お金持ちらしい「父親とされる男性」の存在、母の記憶はない。自分はピエールの母違いの姉であり、自身の母はピエールの父親とは結婚しておらず、若くして亡くなった
・ピエールにもそう言われると父親のことや家の中のことで思い当たる点があり、イザベルの言うことを信じる
・ピエールが「恐れの岩」と呼ばれる不思議な形の岩へ行く
・リュシーとの婚約を解消し母とも別れを告げ、イザベルを自分の妻ということにして都会に出て一緒に暮らすことにする。またその際にイザベルと共に暮らしていた女も一緒に連れて行く
・ピエールは小説を書いて生計を立ててゆこうとする
*********
・都会でいとこに助けを求めるが、彼はリュシーを傷付け家を出たピエールに罵声を浴びせて門前払いをする
・何かの組織だった集団のアジトに身を落ち着ける。非常に質素な場所でまともな家具もなく、食堂とドア続きでそれぞれの部屋が繋がっている間取りである
・息子の家出で錯乱した母親が亡くなる
・ショックから寝込んでいたリュシーが回復し、ピエールのところへやってくる
・ピエールの元へやってきたリュシーを弟(原作では兄)といとこが連れ戻そうとする。そこへピエールと組織の連中がやってきて二人を引きはがし、リュシーを受け入れる
・イザベルはリュシーとピエールの関係に非常にナーバスになる
・イザベルをなだめるピエールが彼女にキスをすると、もたれかかったドアが開いて抱き合ったまま二人はリュシーの部屋に入ってしまう
*********
・ピエール、イザベル、リュシーの3人で波止場へ散歩に出かける
・散歩の途中で見つけた「父親」の姿(写真または絵)への反応から、イザベルが本当に自分の姉なのかが分からなくなってくる
・イザベルがリュシーに「あなたは私の友だちなの?」と詰め寄る。その後イザベルが船から身を投げる(原作では飛び込む寸前に止められる)
・出版社に送った小説が全く受け入れられず、酷評される
・いとこからの手紙を受け取り、組織の連中が持っていた拳銃を二梃奪ったピエールはその銃でいとこを殺してしまう
・ピエールの元へイザベルとリュシーが駆けつける。ここでイザベルはリュシーの前で初めて「彼はわたしの弟」と言う
いかがでしょうか。これを見ると映画のほとんどが原作通りの流れで構成されていることが分かると思います。
小説で描かれている時代は映画の時代とはかなり離れていますので、携帯電話やパソコンなどはもちろん存在しませんし、舞台となる国も原作ではアメリカであるのに対し映画ではフランスです。
そして現代のフランスでは原作のイザベルのような生い立ちというのは現実性に欠けるため、東ヨーロッパの戦争から逃れてきた難民という設定に書き換えられています。
また映画の結末も原作とは異なっていて、
獄中のピエールに面会したルーシーが二人の関係を知りショック死、残されたピエールとイザベルも服毒自殺
(『ポーラX』パンフレットより)
となっています。ちなみに原作ではルーシーの兄たちが駆けつけたときにはルーシーは既に死亡、ピエールも息はないものとみられるがイザベルはまだかろうじて生きています。その後まもなくイザベルも横たわっているピエールのうえに倒れ落ち、その命を終えて物語は完結──となります。
②へ続きます。
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