レビュー第1回目はこちらです。↓
レオス・カラックス監督作『ポーラX』のレビュー第2回目は、関連書籍の中でもイザベルに焦点を当ててその人物像を振り返ってみます。
カラックス監督はイザベルという女性にどのようなイメージ像を持たせていたのか、そしてそれを演じたカテリーナ・ゴルベワは、イザベルというキャラクターをどのような女性と受け止め、表現していたのか──などについて、いくつかの引用を元に紹介していきます。
『ポーラX』と『ピエール』におけるイザベル像の違い
第1回目のレビューでエンディングは映画と小説とで異なると書きましたが、それ以外の非常に重要な原作との相違点として
という点も挙げられます。
原作のイザベルは射干玉のような湯浴みされた長い黒髪と黒い瞳、オリーブのような肌を持ち、グラマラスで神秘的な美しさをもった女性として描かれており、その美しさから周りの女性たちにやっかみや謂れのない悪口を言われたりもしています。
小説では金髪・碧眼に白い肌のルーシーを「尊き天使(みつかい)」そしてルーシーと対をなすような黒髪に黒い瞳、浅黒い肌のイザベルを「悪しき天使(みつかい)」と表現しています。
それに対して映画『ポーラX』でカラックスが求めたイザベルのイメージは
であったといいます。『ポーラX』のイザベルは
「戦争の苦しい体験をしますし、大変な苦労の果てにこのような行動をした──」
(雑誌『STUDIO VOICE』1999年11月号「ポーラX特集」カテリーナ・ゴルベワのインタビューより)
という人物設定をリアルなものにするために、原作のイザベルとは異なるイメージを持たせたのだそうです。
同『STUDIO VOICE』1999年11月号のカラックス監督のインタビューの中には次のような一節もあります。
──イザベルは、森の中でのモノローグによってアイデンティティをはっきりとさせてゆきますが、これは次第に髪が覆っていた彼女の顔が露になってゆくことと同じ意味を持っていますか?
それは、つまりピエールが暗闇に慣れていくということなのです。それから彼はいつも彼女の後ろにいる。だから、観客が彼女の顔を見る時にも、彼には見えていない。最後に彼らが向き合う時でさえ、彼女は俯いてしまうので、髪の毛のせいで顔は見えません。小説では、イザベルの髪の毛というのは殆ど魔法のようなもので。もっと豊かで、魔女的な時もあればエロティックな時もあるのです。
この発言を読んでも『ポーラX』のイザベルは、小説のイザベルのように
“抗えないほどの「女」としての魅力”も加味されたうえで、ピエールにあのような決断をさせた──
という人物像だったわけではなくて、純粋に(?)彼の心の深いところに存在し燻っていた何か=「この世を超えるきっかけ」(それはピエールにとって大きなタブーであると共に“奥底に隠されていたもうひとつの自分”→つまり自分の中の欠損=「姉」という存在)というものをイザベルに見出した──ということが強調されているように感じ取れます。
レオス・カラックスは映画『汚れた血』では
「とにかくジュリエット・ビノシュをきれいに撮ることを主軸に絵作りを考えた」
(『ポンヌフの恋人』パンフレットより)
とのことですが、それとは対照的なアプローチですね。
そのジュリエット・ビノシュは『ポンヌフの恋人』では一転してホームレスとして描かれましたが、ホームレス(そして片目)となる以前と、目が治って元の生活に戻った奇麗なミシェル(ビノシュ)もちゃんと描かれていました。そしてそのどちらのミシェルも、結局は魅力的に映っていたのでした。
かたや今作のヒロインであるイザベルは、最後まで若い女性としての(外見を飾るという意味での)美しさを表現されることはありませんでしたが、逆にそういった飾られた外見や身分、金銭的な豊かさといった「取り繕うことができる外的要素」を完全に排除された姿で描くことで、イザベル(=カテリーナ・ゴルベワ)の根源的な美しさが表れていたように思いました。
(あくまでもイザベル原理主義者としての個人的感想としてお読みくださいw)
とはいえ、ピエールとイザベルがセックスをした場面のスチール写真を見ると、仰向けに寝ているイザベルの胸にピエールが顔を乗せている写真や、ピエールの上に覆い被さるイザベルの髪でピエールの顔が完全に隠れている写真などは、イザベルの長い黒髪の美しさは十分に表現されていました。
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