ラストの考察について
結局のところ「映画の中で明確な結末を提示していない以上、絶対的な正解というものはない」という前提での話となりますが、それでも確認できる確かな部分や映画の外側で明かされている部分(監督がどこかのインタビューで語ったことや使われなかったシーンなど)を知ったうえで考えられる結末を数パターン出してみようと思います。
これは何度も書いているように、海外のブログや動画で語られているもの(英語とスペイン語の両方)と、それを見たあとで自分でも映画を見直しながら考えたものとなりますので、基本的に私が観察眼や理解力が優れているというわけでは全くありません(笑)。
確認事項と、押さえておきたい点
まず、映画の中で実際にあったシーンを挙げます。なおそれぞれの場面が現実のものなのか、それもとゴレンの幻想のものなのか等についてはこの時点では判断しません。
❶中盤で激怒した管理者が料理人を集め、髪の毛がついたパンナコッタを持って犯人探しをするシーンが挿入される。黒髪の白人男性がその犯人だとされた模様
❷途中で車いすの賢人から「手をつけずに0層に料理を戻せば、それがメッセージとなり意図が伝わる」との助言をうけ、ゴレンとバハラトはパンナコッタを最後まで手をつけずに残すことにする
❸99層から146層までのどこかの層で、ミハルを56した男たちと戦ったふたりは重傷を負う
❹生きている人間がいない層では台座は止まらない
❺333層で止まる。ふたりはアジア人の女の子がベッドの下に隠れているのを見つける
❻ふたりはパンナコッタを持ったまま台座から降りたところで台座が下へ降りてしまう。が、温度が変わらない
❼女の子にパンナコッタを食べさせることにする。女の子が食べている姿を見てふたりは微笑む
❽ゴレンの夢の中でバハラトが「女の子がメッセージだ」と告げる。目を覚ましたゴレンは横でバハラトが死んでいるのに気付く
❾ゴレンは女の子とともに台座で下へ向かう。台座は真っ暗な空間を降りていったのちに止まる
❿辿り着いた場所でゴレンはトリマガシに「メッセージに運び人は必要ない」と言われ、女の子を残して台座を降りる
⓫まともに動けない状態だったはずのゴレンがトリマガシと並んで歩いていく
⓬女の子を乗せた台座が猛スピードで上昇していく
次に、映画ではその描写は使われていないが分かっている情報がこちら。※真偽不明のものも有り
▪️監督はインタビューで次のように語っている
この中の「0層に少女が到達するシーンがあった」という部分は、海外の考察動画でその映像や画像がありますので(管理人が女の子を抱きしめている)、監督がそういうエンディングとなる設定も頭にあったことがわかります。
ただしその後の発言内容から、それが唯一の正解というわけではなく、
女の子は存在せず(ゴレンによる幻想)最下層でゴレンが「自分の行動が変化をもたらした」という思いを抱きながら死んだ
という解釈も出来るようにぼかしたエンディングにした、ということだと思います。さらに監督はこのような発言もしているようです。
壊滅的なエンディングを撮影するところまでは行ったが、うまくいかなかった。小さな希望のメッセージで締めくくるほうがよっぽど開放感がありました。
最初、主人公は良いアイデアを持って入ってきますが、それを実行する方法が分かりません。そして、非常に大きな犠牲を払い、小さな勝利を得ることができます。
色々調べてさらに日数もかかってしまったので、この監督の言葉が出ていた情報元がどこだったか見つからないのですが(笑)、とにかくこのような発言があったようです。最後の日本語がちょっとおかしいのは翻訳ツールによるものです。元情報が出てこないので自分で訳し直すことが出来ず恐縮です。
ここから分かるのは、監督は「壊滅的なエンディング」というパターンも用意していた、ということ。推測するに「壊滅的な」結末というのはふたりが失敗(途中で56されるかパンナコッタを失うなど)するか、もしくはパンナコッタ(333層の女の子や自分たちの可能性も)を0層に届けることが出来たとしても、それがポジティブな結果に結びつかなかったという結末なのではないかと。
考えられる結末
個人的に一番腑に落ちた考察も含めて、いくつかの考えられるエンディングの可能性を挙げていきます。
まずはその前に、先ほどの❶~⓬の中で「おそらくこれはこういうことだろう」と思われる点をチェックします。
❶のシーンで考えられるのは2つのパターン。
→賢人が言ったとおり管理者はメッセージを理解しない
→この場合はラストで女の子がメッセージとして届けられた可能性に一応は繋がる。(ただし事前チェックで激怒していただけ、という設定は可能性が低いと思われる。なぜならそれだとこのシーンを入れた意味がないので)
❺の場面は、女の子がいたから台座が止まった可能性(見たまんまの解釈)と、あそこが最深層だったから台座が止まったというふたつの可能性が考えられる。
この映画の舞台となる牢獄はダンテの『神曲』の中の地獄篇に出てくる地獄の構造を思わせるものがあり、またゴレンが滞在することとなる層の数字が202層以外全て3で割り切れる数であったこと(『神曲』は3という数字、3の倍数の数字に拘って作られている/なお202→22→マスターナンバーであり、この数字にもまた意味がある)からもそのあたりの関連性が考えられる。
そして333という数字は獣の数字である666の半分、つまり半獣の数字で、また各層に2人ずつ配置されるので「333層×2=666人が収容される牢獄」ということも言えます。ちなみに888はイエス・キリストの数字、999は神の数字とされています。
ですので333層が最深層であることは十分に考えられます。
❻でパンナコッタを残したまま台座が降りたのに温度が変わらなかったのは、以下の可能性が考えられます。
→つまりこの時点でふたりは死んでいた。パンナコッタが0層に届けられる可能性は有り。
→食べ物を取り置いたときに温度が変わるのではなくて、「本人が好物として申請した食べ物以外を取り置いた場合に温度が変わる」というルールの可能性。
つまり管理者は「それぞれが申請した食べ物だけを食べれば全員に食べ物が行き渡る」というおよそ実現不可能な理想論のルールを設けており、温度が変わったときは「自分の食べ物」以外を(も)手に取って残してしまったから、という解釈。
ここでは女の子の好物がパンナコッタだったので温度が変わらなかった。ただし女の子が好物を申請してここへ来たのならイモギリの証言(16歳以下は入れない)と矛盾が生じるし、そもそもイモギリ自身が子どもの面接はしていないので、これだけだと辻褄が合わない。だが、
という可能性なら温度が変わらなくても矛盾はない。その解釈だと管理者は「女の子を上に上げる者が現れたとき、この牢獄に連帯感が生まれたと判断する」という、これまた無理めなハードルを設定していたと考えられる。
もちろんこの解釈の可能性は低いと思われますが、海外の考察ブログでは実際にこのような意見もありました。
❿~⓫の場面では、瀕死の重傷を負っていたはずのゴレンが立ち上がってトリマガシと並んで歩けるはずがないので、この時点でゴレンはほぼ間違いなく死んでいたものと思われます。
というわけでエンディングの可能性を挙げていきます。
可能性その1
女の子は存在しない。
ミハルに娘はいない。ミハルが捜していた「息子」とは“結果的に”ゴレンのことだった。
ゴレンとバハラトは最下層まで辿り着く前に(もしくは333層で)ふたりとも死んだ。
だがパンナコッタは0層へ届けられた。
そのパンナコッタを見て管理人は激怒した。髪の毛はゴレンのもの。
→管理者がメッセージの意図を全く理解していないので、未来は賢人の言うように0層の人たちに委ねられることになるが……
これが個人的に一番しっくりくる解釈でした。やっぱり下の層に女の子がひとりでいて、しかも健康そうであるというのは現実的にはありえないでしょうから。
またミハルについてですが、彼女の行動原理自体は謎というか、意味があるのかどうかは分かりません。ですがゴレンという「このシステムを変えるための行動を起こす者」が現れたときにその者を生かし、そして行動へと繋がるヒントのようなもの(台座に乗って下の層へ移動するということ、そして移動した先では場合によって相手を殺さなければならないことなど)を与える存在となったのは確かです。
そう考えると、ミハルは実際に存在した者の中では最も非現実的な存在だったといえるのではないでしょうか。
マンガやアニメによくある設定に例えると、
みたいな感じのキャラクターというか。
可能性その2
女の子は存在した。
その子はミハルの娘である。ミハルが探していたのは息子ではなく娘だった。
女の子はパンナコッタを食べ、バハラトは333層で死んだ。
女の子を台座に乗せたあとにゴレンも333層で死んだ。
333層が最深層で、女の子は0層に上がっていった。
そこよりさらに下へ降りていった場面以降はゴレンの幻想。
管理者が女の子と対面する。(メッセージが届けられた)
中盤のパンナコッタに髪の毛が入っていたシーンはラストの展開とは関係がない。
→女の子が上に行ったことで確実にメッセージとして伝わるので、未来が変わる可能性を感じられる結末に
この解釈では、今いち納得出来ない箇所がいくつか出てきます。
まず「女の子はどうやってここへ来たのか?」という点。もしミハルの娘であるならば「ミハルは1年前にひとりでやってきた」というイモギリの証言と食い違います。また「16歳以下は入れない」というルールも嘘であったということになりますが、単にイモギリが真実を知らなかっただけだとしてもミハルの面接をしている以上、この女の子がミハルの娘である可能性は限りなく低いことになります。
次に、そもそも333層という場所でどうやって今まで女の子は生きてきたのかという疑問。ミハルが台座に乗って下まで降りるのは月に一度です。(システム上、333層までは月に一度しか行けないし、そこから上には翌月まで上がれないので食べ物を確保する方法があるとしたら、途中の層で殺した人を運んでその肉を食わせてきたという可能性しかありません)ですが少なくとも女の子は健康そうに見えました。
また女の子が333層にいたのはたまたまこのタイミングだったのか、それともずっと333層にいたのかという疑問もあります。前者は生きていられる可能性が低いですし(食べ物が届かない層で殺される可能性が高い)、後者はなぜ女の子だけ層を移動しないのか、というシステム上の疑問が生じます。
可能性その3
女の子は存在した。
しかしミハルの娘ではない。ミハルが捜していた「息子」とは“結果的に”ゴレンのことだった。
女の子は管理者、もしくはこのシステムを作った者たちによって333層に入れられた。
(「最下層まで食べ物を行き渡らせるという連帯感」を収容者たちが生み出すことが出来るのかを試す意味で女の子を333層に入れている?)
システム側の意図によるものなので、女の子は健康な状態でいられるように管理されている。
ゴレンとバハラトが333層までパンナコッタを持っていくことに成功する。
女の子は0層へ上がっていき、ゴレンとバハラトは333層で死んだ。
そこよりさらに下へ降りていった場面以降はゴレンの幻想。
管理者が女の子と対面する。(メッセージが届けられた)
中盤のパンナコッタに髪の毛が入っていたシーンはラストの展開とは関係がない。
→システム側の意図通りに女の子が上に昇ってきたことで、未来が変わる可能性を感じられる結末に
こちらは1と2をミックスしたような結末ですが、女の子が実在するという前提で、なおかつ「可能性その2」での矛盾点をなくした解釈といえます。
ただしシステム側が女の子を333層に入れたという説は映画から自然にイメージできるものではありませんし、同時にあまりにも非現実的に思えるのでこれはかなり微妙なものかと思います。
ちなみにこの「システム側が女の子を333層に入れた」という考察も、たしか海外のブログで見たものなのでそういった解釈をされた方が実際にいるようです。余白を読みすぎている気もしなくもないですが、たしかに面白い考察だと思いました。
といった感じで幾つかの解釈を挙げてみました。繰り返しになりますが私が最もしっくりきた解釈は
ゴレンは死に、女の子は存在せず、パンナコッタは0層に届けられた
というものです。パンナコッタが届けられずに失敗に終わった可能性もありますが、どちらにせよゴレンとバハラトが幻想の中で(ゴレンだけの幻想かもしれない)女の子にパンナコッタを食べさせることが出来て、食べている姿を見たふたりが満足そうに笑っている──もうそれだけでゴレンとバハラトはこの革命に勝利したのだと私は思いたいです。
レビューを書くにあたって何度も何度も色々なシーンを見直しましたが、最終的に自分なりの解釈が出来てから改めてこのシーンを見たら本当に涙が出てきました。
この映画にはいろんな解釈があるでしょうし、人間への絶望感とか嫌悪感みたいなところに意識が引っ張られてしまった人も多いかとは思われますが、最後にこのふたりの笑顔があったことはぜひ見落とさないでいてほしいと思います。
弱者のために命懸けで体制に挑んだ男ふたりが報われた瞬間がここだからです。
comment
FACTFULNESSという本を読んだばかりだったので映画の階層の表現に深く感慨を覚え、さらにこちらの考察を拝見して深まりました。内容はもちろん、話の流れがわかりやすかったです!MBTIを混ぜてるのもわかりやすかったです。他のレビューも参考にさせて頂きます!
ありがとうございます!そのように言っていただけてすごく嬉しいです。
この映画に関しては海外の動画やブログなどの考察をかなり参考にさせてもらいましたが、そういうのを見ては「よくもまぁそんなところに気がつくもんだ」と感心してばかりでした。
自分はINFJなので隠された意味だとか何のメタファーなのかといったことについ目がいってしまうのですが、思考タイプのような知識量も頭も良さも持っていないので全て自力で書き上げるのは難しかったみたいです(笑)。
昨日Amazonプライムで観て消化不良部分を解消したくてここにたどり着きました。
この映画、非常に面白かったです。
私の感想だと結末の可能性は3に近いです。
・女の子は存在した(管理者が意図的に入れた)
・人を殺しても上の層には行けない(下層に刀を持った荒くれ者がいるので成立しない)
・ミハルの子ではないが彼女は子供を保護していた(野蛮な男の餌食にされないため)
・女の子の存在を知ったのは偶然かもしれないし、管理者の意図かもしれない
・あの施設は刑務所であり実験所でもある
・犯罪者だけでは事態が動かないので一般人も参加させられるようになる
・自分の好物または1皿分だけ食べれば生き残れる(または2日に1度とか3日に一度に減らす)
・人を殺したものが上の層に行けるのではなく試練(生きる努力をするとか?)
・毎回ミハルが上から下りてきたのは最下層まで行ったから
・最下層まで行ってすべてを見た者が上層に行けるルール(天国から地上に生まれた神の子イエスの再現)
・0層のパンナコッタシーンは料理だけ残しても理解されないって言う暗示
・何故なら施設の内情は知らされていないから(イモギアも知らなかった)
・女の子はパンドラの箱の希望(子供は参加できないルールなので0層で気づいてもらえる)
・希望なので最悪気づいてもらえない可能性もあるがゴレンが起こした一石で変化は起きるかもしれない。
・ゴレンは333層で死んでいる(十字架で磔刑になったキリストと同じ)
・最後は希望を胸に死んだゴレンの魂の世界というか幻想
もっと時間をかけて情報収集していたら協力者も増えて生きて期限を終えられたのだろうか?・・・
大変興味深い考察、ありがとうございます!内容の良し悪しはもちろんのことですが、見る側に考える余地を多く与えている映画は色々な解釈ができて面白いですね。
いただいたコメントを読んで、この映画が私たちが暮らすこの社会を投影していることと、その世界にキリスト教の解釈が大きく関わってくるストーリーになっているということを改めて感じさせられました。
> ゴレンが起こした一石で変化は起きるかもしれない。
というポジティブな可能性を見出す考察は完全に同意します。きっとそこが映画の重要なポイントのひとつなのでしょうね。
<以下は完全に蛇足です>
あとこれを書いた時点ではそれほど現実味がなかったことですが、現在世界中で騒がれている食糧危機の問題やグレート○セット後の世界なんかも何気に投影しているような気もしますし、さらに調子に乗ってオカルト的要素とか聖書予言、はたまたマッドフラッド界隈の考察も交えて考えてみると「地下に何かある/いる」という暗示も含まれていたりするのかも……なんてふと思ってみたり。。。
興奮冷めやらないままに書き込んでしまい恥ずかしい限りです。
見た直後に浮かんだのは、地獄の餓鬼道の話し。
御馳走がたくさんあっても食べられないんだけど、長いお箸でお互いに食べさあうって言う。
仏教的な考えは制作側には無いだろうとすぐ忘れましたが(苦笑)
地下にあるもの、地下資源(海洋資源)くらいしか思いつきませんでした。
いろいろ考えさせられる映画ですね。
そんな、とんでもないです〜。
映画を見てから結構経っていることもあって今イチ的を得ない内容になってしまいほとんど削除してしまったのですが、当初はかなり長い返信を書いてしまったくらいですから。なのに削除して付け足したのが一番わけのわからない怪しげな内容というダメさ加減…。大変失礼しました(笑)。
そう言われてみるとあの空間で繰り広げられていることはまさに修羅道や餓鬼道の世界観といった感じがしますね。。
すごく面白く考えさせられる映画だったんですが、パンナコッタと女の子と、途中の管理者がパンナコッタを持って怒鳴ってる場面が結び付かず、悶々としてたところたどり着きました。
最後の二人の満足そうな笑顔は、私も涙しましたし、「革命への勝利」に同意です。
「ゴレンは死に、女の子は存在せず、パンナコッタは0層に届けられた」このフレーズがすごくしっくりきました。
読ませていただいて、もう一度物語を振り返ると、こちらも気になってたんですが、ゴレンがもらえるはずだった「認定証」は「救世主の認定証」なのでは?と。
人は昔から生きながらにして神を目指そうとして上を目指しては蹴落とされ、蹴落とされてはのし上がるという輪廻転生を繰り返し(階層が変わる)、革命を起こした二人がたどり着いた先は、欲望のない心=純真無垢な子供(女の子)。子供が1番神に近い存在だが、残酷にもゴレンは同時に最期を迎える。結局のところ生きながらにして神に近づく事は不可能(ゆるされない)だと伝えられてるようにも感じました。
ここの囚人は、罪というよりは我欲を落としていくこと、我欲を無くせば自然と神に近付くという人生そのものをあの狭い空間で描いてるように感じ圧巻。
※試練というか、何か(弱い者)を守るために命を投げるという行為の先に称号のようなものが与えられるようなところが「パンズラビリンス」と近いものを感じました
そうなると、人間の思考(好きなものを聞かれても食べたいだけ食べて残らないことや、ゴレンたちが分け与えるために守り抜いたことも)と神(0層)の意図とズレが生じてるからこそ、途中のパンナコッタに付いていた髪の毛のシーンも描写されてるのかな、、なんて。
キリスト教を知らないと、シュールな囚人同士のざん〇つ映画だな、と思いましたが最初から最後まで考えさせられる映画でした。
こちらに辿り着くことが出来たおかげで、自分の中の考察も広がりました。
ものすごい細かなところまで調べてまとめてくださってありがとうございます。
すごく考えさせられる考察、ありがとうございます!
コメントをいただく方々の考察は皆とても面白くて、私も新しい気付きを得られて嬉しい限りです。
たしかに人はこの世で高みを目指してもがくものの、根本的なやり方やそもそもの目指す姿を間違えてしまう生き物なのでしょうね。人間の思考と神の意図とのズレ…全くもって仰る通りだと思います。
また「たどり着いた先が純真無垢な子供」という解釈も、すごく腑に落ちます。崇高な目的(とふたりは思っている)を達成するために人を威嚇し傷つけて333層までやってきたふたりにとって、あの女の子がいわば最終試験のようなものだったのかもしれませんね。書いていただいたように、ゴレンが欲しかった認定証が何なのかが説明されていなかったことにも繋がってくるんだとしたら本当に深い作品なんだなぁと…。
通行人さんのコメントにあった「ゴレンが起こした一石で変化は起きるかもしれない」といった「その後に起きることの可能性」などの考察と合わせてまた新たな視点を教えていただけて、本当にありがたく思います。
そして『パンズ・ラビリンス』!あれも本当に切ない映画でしたが、最期にあちらの世界(天国?)に迎え入れられて全てが報われたと信じたいです。
仏教とか神道の世界観が浸透している日本と違って、西洋はキリスト教に基づく倫理観とか死生観がベースになっているのかもしれませんが、現実社会はそれこそ矛盾と不道徳だらけで、自分たちもそれをよく解っているからこそ、そのことに心が囚われているのかもしれないですよね。
こちらこそ、より深い考察を教えていただきありがとうございました!