最後に登場する男
この『欲望の翼』は、最後にストーリーと何の絡みもなく唐突にトニー・レオンが登場し、やたら天井の低い部屋で身支度を整えて部屋を出ていくところでエンディングとなります。
これについては「この場面は何なの?」「このキャラは誰?」と、多くの人が持ったのではないかと思います。
この不可解なエンディングについて、前編の最初のほうでも触れた「デジタルリマスター版が公開されたときのパンフレット」に載っている1991年のインタビューと、1995年発売(『恋する惑星』公開のタイミング)の『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』誌のインタビューでその疑問の答えを見つけることができますので、それぞれ引用して取り上げようと思います。
パンフレット掲載の監督へのインタビュー(1991年時)より
──さて、この映画の謎めいたラストについて伺いたいんですが、それまで一度も出てくることのなかったトニー・レオン(梁朝偉)が出てきますね。第二部では彼に関する話が主となってくると見てよいのでしょうか。
確かに彼は主たる登場人物の一人にはなる。でも彼が主役というわけでもない。あくまでも第二部の中で並行的に存在する複数の短編小説の一つにおける主役、といった程度だ。第一部と第二部では設定上6年近い開きがあるわけだけど、それは一本の樹木を二つの切り口から切ってみた時のようなもの。切り方によっては、この二つの切り口に見える年輪はまったく違った形を見せているかもしれない。でもそれは確かに繋がっている。第一部と第二部の関係はそのようなものになるだろう。
1991年の時点では監督の口からこのような説明がされていたわけですが、この『欲望の翼』には直接の続編というべき映画はありません。(公開順としての監督の次作は1994年の『恋する惑星』)
では監督の言う『欲望の翼』“第二部”はどうなったのかというと、それは1995年(インタビュー自体は94年かも)のインタビューで語られています。
『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』16号(1995年)内の監督へのインタビューより
(略)当初、物語は二部構成になっていました。第一部は1960年に始まり、第二部は1966年に始まり、両者のあいだには、かなりゆるい因果関係のようなものがあるというものです。ストーリーの進行役はレスリー・チャンによって演じられる人物で、彼は第一部のラストで死にます。しかし彼の存在、彼の行動の結果が、第二部の展開に影響を与えるのです。
──撮影が始まったとき、シナリオはどこまで出来あがっていたのですか。
第一部は大体完成していました。第二部はまだ書かれていませんでしたが、全体の構造については頭のなかできちんと考えがまとまっていました。実際、第二部は結局書くことなく終わったのです。
結局書かなかったんかい!w
ちなみに『欲望の翼』のWikipediaには最後に登場するトニー・レオンについて、
と書かれていますが、パンフのインタビューによるとあくまでも「主な登場人物の一人」だそうなのでちょっとだけニュアンスが違うようですね。
まあ『恋する惑星』や『天使の涙』のような、複数の主人公による物語という構成であったならばその説明も納得といった感じがしますが。
俳優の演技に関して
またこの2つのインタビューで、監督の考える役者の演技についての話がなかなか面白かったので、トニー・レオンについてとマギー・チャンについてをそれぞれ引用して取り上げます。
トニー・レオン
トニー・レオンについての監督の認識
『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』16号(1995年)内の監督へのインタビューより
──《ボディ・ランゲージ》というものに大変注意を払われているわけですが、すると俳優たちのごく微妙な動きも前もってあなたが振り付けていらっしゃるのでしょうか。それとも彼らに即興の演技を要求なさるのでしょうか。
香港の俳優たちの大半はテレビ畑のほうから来ていますが、テレビではクローズアップが多用されます。言い換えると、顔の表情が重視され、肉体の動きが無視されるということです。したがってこういった大部分の俳優たちは体の動かし方を知りません。マギーはおそらく例外になるでしょうが、トニー・レオンはその典型的な例です。彼は顔ではすばらしい演技をするのに、体の使い方を知りません。結局カットせねばならなかったシークェンスのひとつですが、『欲望の翼』でわたしは彼に、梨を食べ、そのあとそれを窓から捨てることを命じました。そのシーンは30回も撮ったのですが、結局彼は事を成し遂げませんでした。夜帰宅して、そのことで彼は泣いたようです。その後、映画の最後のシーンで、そして実際それは彼を撮影する最後のシーンでもあったわけですが(トニー・レオンが身づくろいをし、髪をとかし、服を着て、ちょっと与太者の遊び人風の態度で部屋から出ていく台詞のないシーン)、わたしは彼にこう言いました。ときには顔で表現するのではなく、体の動きにもっと注意を払うことも必要なのだと。すると彼はごく微妙なしぐさにも意識を集中させねばならないのだということを理解し、その結果とても良くなりました。
第二部は作られることなく終わって、自分の出番も最後のあのシーンだけという扱いで終わったのにも関わらず、トニー・レオンにこんな苦労があったなんて……。でもその後の『恋する惑星』や『ブエノスアイレス』『花様年華』といったウォン・カーウァイ作品で主役を努めていることから、このときの経験を無駄にせず努力を重ねて監督に認められる存在になったのだろうと思うと、さらに好感度が上がります(笑)。
ちなみに、ご存知の方も多いかと思われますがミミ役のカリーナ・ラウとトニー・レオンは夫婦です。20年以上の交際を経て2008年に結婚したとのこと。これぞ美男・美女カップルといった感じですね。
マギー・チャン
マギー・チャンについての監督の認識:その1
『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』16号(1995年)内の監督へのインタビューより
──あなたのマギー・チャンの使い方はすばらしいですね。彼女はファンタスティックな女優ですが、もっと《グラマー》な役で使われることが多いですから。『欲望の翼』では、彼女は庶民の娘に仕立てられていますが、眼に当惑の色を浮かべ、かなり途方にくれた様子です。自分では気づいていないものを自分の中に発見するようにあなたから強いられ、それでたぶん彼女のなかに幾分不安が生じているのだろうという感じを受けます。
マギーとはすでにデビュー作『いますぐ抱きしめたい』で一緒に仕事をしています。彼女はミス香港美人コンテストで優勝したひとで、かなり見かけだおしの役ばかり与えられていたために、女優としての意欲がいささか乏しかったのです。それで撮影のときにわかったのですが、もし台詞が多いと彼女は話し方のほうに気をとられすぎ、その結果神経質になってしまう。ところが台詞が少ないと、彼女はリラックスし始め、わたしは気がついたのですが、彼女は本当に動くことができるのです。それでわたしは彼女の台詞の大部分をカットし、アクションに、体の最もデリケートな動きに集中させるようにし、そしたら彼女の演技はすばらしいものになりました。そののち、彼女が押しも押されぬ女優になると、台詞への不安も消え、彼女は以前よりもっと自分に自信をもてるようになっていました。
この「マギー・チャンの台詞と演技について」は、パンフレットに掲載されている監督へのインタビュー(1991年に東京国際映画祭で来日した際のインタビューとのこと))でも話していますが、同じトピックながらまるでニュアンスの違う語り口となっていて興味深いものがあります。
マギー・チャンについての監督の認識:その2
パンフレット掲載の監督へのインタビューより
──いま役者の話が出ましたが、彼らトップスター級の俳優たちは、新人に属する王監督がこの映画でやろうとしている破天荒な試みをちゃんと理解してくれたのでしょうか。
僕にとって、監督と俳優の理想の関係は、俳優が僕の映画のことをまったく理解していない、ということ。なぜかというと、もし俳優が脚本を読んで何かを理解してしまうと、彼や彼女は自分たちの解釈で勝手に演技をしてしまう。これは自分としては困ったことなんだ。だから何もわからないでいてほしい。そして単純に僕の指示に従ってほしい。別に俳優のことを差別しているわけじゃない。ただ、俳優がある役に扮するという考え方が嫌いなんだ。役に扮するのではなく、そのまま、自然体の自分をキャメラの前にさらけ出してほしいんだ。だから、僕にとって脚本執筆の作業は、具体的な個々の役者のイメージなしにはあり得ない。
たとえば、マギー・チャン。僕は彼女とは『いますぐ抱きしめたい』でも一緒に仕事をしたので、彼女のことはよく知っている。正直言って演技はうまくない。台詞をしゃべらせてもうまくないんだ彼女は。でも普段の彼女はとても素晴らしいし、性格もナチュラルで魅力的。だから『欲望の翼』のシナリオを書く時、僕は彼女の役を、できるだけ台詞をしゃべらせないように、できるだけ演技をさせないように、という方向で設定していったのさ。そして何もしない普段の彼女の姿、その自然な仕草が出るように工夫したんだ。こういうことはすべての俳優に対してあてはまる。基本的に、僕はシナリオを書く前に俳優たちと充分に話をして、なるべく彼らの自然な姿や性格が画面上に現れるようにしているんだよ。
※『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』のインタビュー記事では俳優名が少し違う表記となっていたのですが、現在日本で公式に表記されている名前に置き換えています。
ウォン・カーウァイはとくにそういうところがあるのかもしれませんが、やっぱり映画監督っていうのは自分の中に確固たるイメージみたいなものがあって、たとえそれを演じる役者であっても自分の解釈やイメージと違うことはしてほしくないと考えるエゴの強さみたいなものがあるものなんですねぇ。
そう考えると『恋する惑星』で監督が考えてきた日本語の台詞を「それだとつまんないから変えた。どうせ監督には分からないんだから(笑)」と勝手に違う台詞にして喋ったという金城武のエピソードは、当時のあの若さならではの大胆さも働いてか、実に愉快なものがあります(笑)。
どんな台詞をどう改変したのかについては『恋する惑星』のレビューに書いてありますのでよろしければそちらもどうぞ。
ウォン・カーウァイ作品についての解説動画
今回予告編を探していたら、ウォン・カーウァイ監督の作品をいくつか取り上げて解説している動画をいくつか発見しました。下の2つはどちらも英語でもちろん日本語字幕もないので内容はざっくりとしか理解できていませんが、それでもすごくよくまとめられていて面白かったです。
ちなみに2つ目の動画を作られた方はアンドレイ・タルコフスキー監督の解説動画も作られていて、そちらも素晴らしいのでついでに載せておきます(笑)。
やっぱりタルコフスキー作品の映像美ってハンパないですね。思わず息を呑む──とはまさにこのこと、という感じです。
タルコフスキーといえば(ってかもうウォン・カーウァイ関係ねーじゃんって話ですがw)なかなか面白い動画を昨年見つけました。
こちらはタルコフスキーとイングマール・ベルイマンの映像の中における類似性について。
そしてこちらはタルコフスキーとスタンリー・キューブリックの比較なんですが、こちらの場合は「キューブリックよりもタルコフスキーのほうが圧倒的に芸術性が高い、ということを暗に印象付けるような編集」と思われても仕方がないような動画となっており、コメント欄も多少ざわついているようです。
両者は特徴も個性も異なりますし、自身の映画作品はどこに重きを置いて作っているのかもおそらく違うのでしょうから、こういった比較はまぁ賛否両論となるでしょうね。映像の美しさとか芸術性・叙情性といった観点でタルコフスキーと比べてはいけないのではないかと。
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