何を以て「友達」と定義するのか
そもそも友達の数とその人の価値は全く関係ないと思っていますし、自分は友達が多いか少ないかなんて考えたこともあまりなかったので今までとくに意識もしてこなかったのですが、MBTI界隈の書き込みなどを見ると内向型の人たちの多くが
みたいなことを言っていて、ちょっと気になりました。
以前にちらっと話題にした、昨年の夏にネット上で知り合った海外のメル友(もはや死語…)の女性も、友達はふたりだけと言っていました。なお本人は自分のことをINFJだと言っていましたが、あまりにも考え方や囚われの対象が私とは異なるので、個人的に彼女はISFJなんじゃないかと推測しています。
ちなみにもうじき成人する娘がいるそうなんですが、もともと結婚しておらずパートナー(娘の父親)との関係もとっくの昔に終わっているとのことでした。
どういう人生を送ってきたのか全然知りませんが、内向型の人間というのはやはりこのように「自分が無理せず付き合える数の交友関係」の範囲内でマイペースに暮らすのが一番落ち着くというか、それで十分心地良いと感じるものなのでしょうね。これは同じく以前話題にしたドイツ人のメル友(ENFJ)とはえらい違いで大変興味深いです。
話を戻すと、私が気になったところは2点ありまして、ひとつは
誰と比べて「多い/少ない」を決めているんだろう?
ということ。そしてもうひとつは、何を以て「友達」と定義しているのかに関係してくると思うのですが、
内向型とはいえちょっと少ないのではないか?
ということです。
これはそういった人たちが「人から受け入れられていない」ということではなくて、その人自身が自分にとっての「友達」の定義とかハードルをものすごく高く設定しているからではないかと思うのですが、どうなんでしょうか。
相手はその人のことを友達だと思っているのに、その人が相手を友達だと認めていないだけ──という可能性はないだろうか、と。しかもその「認めていない」というのが、自分が拒絶しているんじゃなくて相手が自分を受け入れていないと思っているという。
どうせ自分なんて友達だと思われてないに決まってる
向こうから話しかけてきたり遊びに誘ったりしてこないってことはたぶん友達だと思ってないんだろう
みたいな。さすがにここまで受け身が過ぎると匙を投げたくもなりますが(笑)、大袈裟に言うとこんな感じなのかなぁと。
まぁこの辺は人によって様々だと思いますので、一旦私が考える「友達」というものについての定義などについて書いていきます。
まずは「親友」と呼べる人について。その定義は
これは普通にそうなりますよね。次に「親友」に近い存在として
という人たち。こういった方は年上である場合がほとんどです。
年上なので友人としての交友関係の中で知り合った場合でも「友達」と呼ぶことにはちょっと抵抗があり、そのため「仲良くさせてもらっている人(または先輩)」という言い方をしたりすることが多いです。
私は昔から年上の人と仲良くなることが多かったし気に入られることも多かったので、仲良くさせてもらっている年上の方はそこそこいます。
気に入られる理由は簡単で、私は年上の人には(このあと書くひとりの親友を除いて)常に相手が先輩であるという立ち位置を意識し礼儀正しく接しているので生意気だと思われることがまずないからです。気を使うタイプなため「決して自分が出しゃばっていると思われることがないように…」ということをいつも気をつけていますから、よほど深読みするようなタイプでもなければまず間違いなく相手はいい気分でいられるはずなんですね(笑)。映画『東京物語』の原節子ですよ。
「私ずるいんですっ」
っていう。いや違うか。
3つ目は
です。こういった人たちは普通に「友達」とか「○○仲間」と呼ぶ感じでしょうか。
この人たちには必ずしも深い会話や濃い友情関係を求めてはいないので、お互いに楽しく過ごすという共通の目的内でいい関係でいられればそれでOK。もちろんここから深い付き合いに発展する人もいれば、逆に悩ましい存在となってしまう人が出てくることもあります。
最後は
これは置かれた環境上、好き嫌いに関係なく同じ空間を長い期間共有することになる相手なので、無関係というわけにはいかない人たちのこと。こういう人たちはそのまんま「同級生」とか「同僚」といった位置付けになり「友達」からは少し距離がある感じですかね。主な総称は「知人」とか「知り合い」です。
もちろん同級生や同僚の中でもまるで接点もなくほとんど他人と言っていい人たちはここにも含まれません。
私の感覚だと3つ目の「同じコミュニティの仲間」も別に友達と呼んで何ら差し支えないと思っているのですが、こういった関係の人のことを「友達」と認定していない方がかなりいるのではないでしょうか。たぶんですけど外向型、とくにESFxとかESTPあたりの人などは「え?いや普通に友達だけど何か問題あるの?」とか言いそうな気がします。
おそらく「自分には友達が少ない」と思っている内向型の多くは、友達というものにちょっと特別な絆みたいなものを求めすぎているのではないでしょうか。そういうのは「親友」のことを言うのであって(ってかたとえ親友であってもそこまで重く考えなくていいのかもしれません)”普通の”友達に対してはもっと軽く位置付けていいように思います。
友達というものに特別な位置付けをすることも別に全然悪いことではないですが、「友達が少ない」というその言葉によって、自分で自分に呪いの呪文をかけるようなことはしないでほしいんです。それはおそらくマイナスの暗示です。
たぶん自分で条件を厳しくしているだけで、もっとユルい基準で見たら普通に何人も友達はいるんじゃないでしょうか。
とはいえ、現代社会がここまでコミュニケーション不全に陥っていることで、本当に誰とも接点を持てない人というのも存在するでしょうし、運悪く置かれた環境が最悪だったために周りから冷たくされたり無視されたり、ひどい場合はいじめられたりして「友達なんてどこにもいやしない!」と諦めている人もまた(悲しいことですが)存在しているのも事実でしょう。
そういう環境から抜け出すために何をすればよいのかを私が軽々しく言うわけにはいきませんが、今自分が関わりのある人たち、コミュニティだけが世の中の全てではないということと、それどころかそんなものは世界の中ではほんの小さな水溜りのひとつにしかすぎないんだと考えて、自分が本来の優しい自分でいられるような相手を外の世界に見つけてほしいと思っています。綺麗事のように感じられるかもしれませんが、本当にそう思っています。
今の状況が酷すぎて自分ではどうすることもできない、と絶望しているときは全てが不可能だと思いがちです。
その状況をどうにかしようと頑張るのもいいですが、例えばネットでも現実の世界でもいいので、普段の環境とは違うコミュニティを覗いてみるとか、誰か興味を持った人がいたらちょっと勇気を出して絡んでみる、というのはどうでしょうか。ただしソーシャルメディアはおすすめしません。もっと全体的にモラルがあってマナーがよくて、無責任な揚げ足取りや悪口を言う人が少ない健全な場があるはずです。ソーシャルメディアは手軽だからこそ人がああも簡単に無責任になれるのでしょう。
自分が普通に受け入れられる場で人と真っ当な交流を持つようになると、
自分にもこんな居心地のいい場所があったんだ…
と、なんだか救われたような気持ちになれたりするものです。そしてそういった人との小さな縁が、やがて連鎖反応を起こすように大きな変化をもたらして、今までは「自分では絶対にどうすることもできない。もう詰んだ」と思っていた現状を変えてくれることになるかもしれません。
そういう可能性ってゼロではないと思うんですよね。だからまずは小さな石でいいから転がしてみるんです。大きい石を持ち上げて転がせと言っているのではありません。自分が持てる大きさの小石でいいんです。
あと諸々のソーシャルメディアやLINEのグループみたいなものも自分には合わないなと感じたり、毎日見るたびに精神的に不健康になっていくと感じるようなら、思い切ってやめてみることをおすすめします。私はそれをやったことによって本当に無駄な人付き合いがなくなりましたし、その無駄な時間を自分が能動的に関わりたい相手(外国人のメル友とかw)に使うことが出来るようになってものすごく気楽になりました。まぁ自分の場合は元から全然それらに依存してなかったので離れるのもさほど難しくはありませんでしたけど。
用件が終わってるのに何度もメッセージだのスタンプだのを送り合うのも最高に面倒臭くて無意味ですし、知り合いがどこで何をしたとか何を食べたかなんて心底どうでもいいのに、それに反応しないと今度自分が投稿したときにいいねを押してもらえなくなるから…みたいなことがもう本当にアホらしいというか何というか。無駄の極地ですよね。そんなのが「友達」なんだったら別にひとりでいいよ、っていう。
ちょっと話が逸れてしまいましたが、要するに「親友」じゃなくて「友達」っていうことであれば、もっと楽に考えていいんじゃないのかなということです。
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