人間を表す数字666、神を表す数字888
シモンが最初にいた低いほうの塔(8m)には、司祭の言葉によれば6年と6週と6日もの間そこに立っていたとのことでしたが、この666という数字は、すでによく知られているように「ヨハネ黙示録13章」の中で“獣の数字”と記されているもので、またその数字とは“人間をさすもの”であるとされています。
(16)また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、(17)この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。(18)ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである、そして、その数字は六百六十六である。
ヨハネ黙示録13章より
(※括弧内の数字は節番号)
塔に立つシモンの前に、悪魔が度々その姿を変えて誘惑しにやってきますが、8年と8週と8日間が経ったとき、悪魔はイエス・キリストのような姿をして現れます。
この888という数字は、キリスト教の数秘術では救い主イエス・キリストを表すものとされています。8年と8週と8日間が経ったタイミングで悪魔がイエス・キリストのような姿で現れるというのもなかなか手が込んでいるように感じられますが、シモンはこのときも悪魔の誘惑に打ち勝ちました。
しかし次に悪魔が現れたとき、ついにシモンは塔から降りることとなってしまったのでした。
塔から連れ出されたシモン
(古代ローマ人が着ていたトガと呼ばれる布を巻いたような服を着た)美しい大人の女性の姿で、悪魔は棺桶に入って三たびシモンの前にやってきます。
これまでと同様に神へ祈り続けることで悪魔を追い払おうとしたシモンでしたが、なぜかこのときはあっさりと連れ去られてしまうのでした。ちょっと不可解でもありましたが、思えばその前からシモンには悪魔に付け入られる隙のようなものがあったのかもしれません。
塔から下りて大地に足をつけて走り回りたいという願望が残っていたり、心の奥底には神の祝福を他者へ与えることに喜びを感じている(神の御心・神の御業による祝福を自身の喜びや満足感のために行おうとする──)自分がいることに気付き、自らを戒める場面などからそのことが窺い知れます。
そういったシモンの中にある弱さや罪深さといったものが悪魔に付け入る隙を与えたのでしょうか。でも「地面に足を下ろして自由に動き回りたい」なんていう願望すら罪だと云われてしまったら私たちはどうなるのよ……っていう話ですけど。。
「迎えが来たわ」
と悪魔が顔を向けた方向を見ると、なんとそこにはジェット機が……。ちなみに映画の設定は15世紀で言語はスペイン語ですが、無垢な少女の姿で現れた悪魔が歌の中でシモンのことを「シリア人」と言っていたこと、そして今作のシモンのモデルとなった人物がシリア人であることから、場所もシリアという設定なのかもしれません。まぁ冒頭でいきなりサボテンが見えていたりしますのでメキシコなのかもしれませんが(笑)。
パンフレットに書かれていた、シモンのモデルとなった人物について言及している箇所を以下に引用します。
本作の主人公シモンは、実在の聖人である登塔者シメオン(390年頃~459年)をモデルとして造形された人物である。シメオンは、約40年にわたって柱の上に住んだとされる苦行者だ。
40年て………
もう戻れない
唐突なジェット機の出現のあとは現代の大都会ニューヨークの摩天楼と街角、そして若い男女がロックバンドの演奏に合わせて踊っているナイトクラブの映像へと切り替わります。
そこでテーブルについている男女は、パイプをふかしているシモンと煙草をくわえて曲に合わせて身体を揺らす若い女性(悪魔)。
悪魔はここでシモンに何を見せようとしているのか──
そしてシモンはこの様子を見て何を考えているのか──
そもそもあのとき塔の上から移動したふたりは、そのまま直接この現代のニューヨークにあるナイトクラブへやってきたのか──それも謎といえば謎です。他にも様々な人間の欲と快楽にまみれた世界を見てまわってきたのか、それともここが最初(で最後?)の場所なのか、具体的な説明や描写はありません。
ただシモンが服装や髪型だけではなく口調まで現代人のそれになっているのが気になりました(あくまで日本語訳でのことですが)。やはりここまでの間に長い年月があったのでしょうか。。。
最初は15世紀から現代まで、様々な場所や時代を見てきて今ここにいるものだと思ったのですが、いきなりジェット機が現れたところからするとそれも違うのかなぁという感じです。
悪魔によれば、このナイトクラブで人々が踊っている踊りの名前は
Carne radioactiva
とのこと。「カルネ」は「肉」とか「肉体」といった意味で「ラディオアクティヴァ」は「放射性の」という意味なので、この踊りは
放射性肉体
という、どう見ても聞いても健全そうには思えない不穏な名称となっています。ちなみに映画の字幕では「肉体核弾頭」とされていて、そのあとに「世紀末の踊りよ」というセリフが続いています。物騒さがより強調されている感じでしょうか。何にしても、こうして見てみると結局どの時代でも人間は救いようのない生き物なんだなとしか思えなくなりますね。。
と、そこへ若い男が悪魔をダンスに誘おうとやってきます。それを見てシモンは帰ろうとするのですが、それに対して悪魔はさらっと絶望的なことを告げて男と踊りにいくのでした。
ここでの会話をスペイン語と日本語訳とで見ていくと、ちょっと気になる(というか怖いなぁと感じた)ところに気付きます。
シモンはあの塔へ帰ろうとするのですが、悪魔によるともうあの場所には別の人間がいるからシモンはもはやそこへ帰ることができない、とのことです。
ではシモンはどうすればよいのでしょうか??? 場所も時代も越えて今ここにいるシモンは、一体どこへ行けばよいのでしょう…。
また、シモンのあとに塔に昇った「別の人間」はどうしているのか、そこもちょっと気になります。その者にも悪魔は誘惑しているのでしょうか……
また「どうして?」と聞き返したときのシモンのセリフですが、日本語訳で「どうして?」となっているこの
(ケ パサ?)
は、普通に訳すと「どうしたの?」とか「何があったの?」といった意味になります。直訳して「なんで?」「どうして?」という意味のフレーズだったら
(ポルケ?)
というのが普通ではないかと思われます。これはきっとその前に悪魔が「行かないほうがいいわよ、がっかりするだろうから」と言っているので
何が起こったために、自分が(そこへ行ったら)がっかりすることになるのか?
というニュアンスの「どうして?」なのかなぁと…。間違っていたらすみません(笑)。
そして最後の「あなたは耐えなければいけないの」「最後まで耐えなければいけないのよ!」というセリフでは、最初と次のセリフで文法上の時制が違っているのが気になりました。
スペイン語で「~~しなければならない」(英語のhave to)は
という形を取るのですが、最初のセリフで悪魔が言う
Tienes que aguantarte.
は二人称の相手に対する現在形のフレーズなのに対して、最後のセリフである
¡Tendrás que aguantar hasta el fin!
は二人称の相手に対する未来形のフレーズとなっています。そしてその未来形の対象となる目的地は「el fin」──「最後」です。
悪魔の口から
「お前は最後まで耐え続けなければいけないだろう」
なんていう呪いの予言みたいなことを言われるのってすごい怖いんですけど。。。
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