ちょっと考えるところがありMBTI関連、とりわけINFJについての話題を書くのはもうやめようかなと思っていたのですが、つい先日シネイド・オコナーが亡くなったというニュースを目にし、PDbで彼女のMBTIタイプの項目をまた読んでいたらなんというか、湧き上がってくるものがあったので少し書いてみることにしました。
このような書き方をしてしまうと、ひとりのアーティストの死をブログのネタなんかに利用しやがってと思われてしまうかもしれません。もちろんそのような意図は一切ないわけですが、読み進めていってもなおそのように感じられたのだとしたらそれは単に私の構成力・文章力のなさによるものなのでしょうから、とくに反論するつもりはございません。
私のMBTI関連の記事を読んでくださる方は20~30代の若い方が多いようなのでシネイド・オコナーについてほとんど知らないという人がほとんどではないかと思います。
こちらが彼女のWikipedia
プリンスの楽曲をカバーした『Nothing Compares 2 U』が大ヒットし、その特徴的なルックス(坊主頭)のインパクトのみならず、のちの様々な物議を醸す行動や発言などにより、当時洋楽好きだった日本人でシネイド・オコナーというアーティストを全く知らない、という人はとりあえずほとんどいないんじゃないか──というくらいの知名度を持っていた人でした。
上のリンクからWikipediaを読んでいただければ分かると思いますが、シネイド・オコナーは児童虐待(カトリック教会による児童虐待を含む)、人種差別、女性の権利といった様々な問題と闘ってきました。
私たち日本人にはなかなか実感が湧きにくいことですが、キリスト教社会の欧米で、そして90年代初め頃という、インターネットも普及していない時代(つまり人々が真実を知る機会が圧倒的に少なかった時代)に、テレビの生番組でローマ教皇の写真を破り捨てるということは大変な反感を買う危険な行為でした。
またアメリカツアーで「コンサートの前にアメリカ国歌が流れたら演奏しない」と発言して猛烈に批判されたりもしたそうですが、当時の社会でこういった行為・発言をすることがいかにリスキーで自身のキャリアにマイナスの影響を及ぼすかを考えると、彼女がどれほどの覚悟を持って真剣に立ち向かった人であったのかが分かります。
この国歌についての発言では、大御所フランク・シナトラから「ケツを蹴飛ばしてやる」と脅されたりもしたそうですが(英語版Wikipediaより)、アメリカ国内での黒人に対する人種差別に強く反対していたフランク・シナトラからこのような批判を受けてしまうというのは、なんともやるせないものを感じてしまいます。
1992年の10月3日、アメリカの人気番組『サタデー・ナイト・ライブ』に出演するにあたり、前日になって急遽、当初予定されていた2曲のうちの1曲をボブ・マーリーの『War』に差し替え、その曲を歌い終えたあとにローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の写真を破り捨てるというパフォーマンスを行いました。
そしてその直後に行われたボブ・ディランのトリビュートコンサートに登場した彼女は、鳴り止まない大ブーイングにさらされ、予定していた曲ではなく同じくボブ・マーリーの『War』を歌いステージを後にします。
完全アウェーのなか歌い終えた彼女は、舞台袖まで行ったところで吐いてしまいます。気丈に立ち向かってやり遂げたように見えたその内で、彼女がどれほどの極限状態に追い込まれていたのかを考えると言葉が出ません。
もしこれが今の世の中であれば、ヴァチカンの悪事もとっくに白日の下に晒されていますし、権力側の腐敗についても多くの人々がすでに知っていますから、きっと数多くの賛同者に守られもしたことでしょう。ですが当時の社会、当時の人々の意識や認識は現在とは大きく異なっており、彼女のような存在は頭のおかしい異端者としてしか扱われないような世の中でした。そんな時代にこのようなことを行うのは(繰り返しになりますが)大変な勇気と覚悟が必要だったことでしょう。
2021年の12月に書いた『INFPとされる海外のミュージシャン』という記事の中でもシネイド・オコナーを挙げていますが、PDbでは彼女はINFPだとする意見が多いようです。
当時はまだ理解が足りない部分もあったのであまり考えずにPDbの結果だけを見て取り上げてしまいましたが、彼女はINFJであるという意見もそれなりの数で存在します。そこで今回改めてコメントを読んでいたら、彼女はINFJであるとする意見の中でものすごく説得力のあるものがありましたので、DeepLで翻訳したものを引用して紹介します。これを書いている人自体がINFPであるという点も、INFJとする説の説得力を増しているように思えました。
明確なNi+Fe。シネイドには、自身のキャリアや遺産を危険にさらしてでも、何よりも優先させる一貫した道徳観がある。彼女は、他の人々に起こっている恐怖について歌い、他の誰もそうしないときにそれについて発言する。彼女にはこれらの問題を強く感じる個人的な理由があるのかもしれないが、彼女の歌はほとんど自分のためではなく、彼女の活動は自分のためでもなく、根本的な原因に対する彼女の焦点と献身には、単にNeの痕跡がないだけなのだ。ものごとを大切にするINFPとして言わせてもらえば、Fiと道徳を混同するのはやめてほしい。INFPは主に“個人的な”倫理観に重点を置いており、それはしばしば活動主義やリスクを冒すことにつながる。しかし、強いFeを持つNiユーザーは、本当に揺るぎなく地獄を引き起こすものであり、より大きな、より個人的でない大義のためなら、自分の感情や芸術を妨害することも厭わない。
私たちは、彼女がローマ法王の写真を破くのを見て、自分の感情に囚われて壁から飛び出したと思う。それは、不正の犠牲者に対する彼女の強い共感(Fe)であり、彼女を取り巻く世界における哲学的一貫性の必要性(Ni)によって焦点を絞られているのだ。彼女は感情的な衝動から行動したのではなく、自分の確固たる信念体系に従って意図的に行動したのであり、それがたまたま道徳的なものだったのだ。それがINFJなのだ。
いかがでしょうか。感動的ともいえる素晴らしい考察ではないでしょうか?
しかもこれを書いている方はINFJではなくINFPであるという事実。
何度も書いているように、私は色々な診断サイトでINFPという結果が幾度も出たINFJですが、INFPがどういう人間なのかというのは正直言って今でもよく分かっていません。
ですがこのINFPの方が書いたコメントは、私自身の特徴や傾向とリンクする部分があまりにも多くて、これを書いた人は本当にINFJではなくてINFPなのか?と驚いてしまうほどでした。
私個人の傾向として、
「人としてそんなことを容認してしまってよいのか」
といったようなことに強いこだわりを持っています。自分にとっては倫理的にも感情的にも到底受け入れられないことなのに周りの人たちは平然と見て見ぬ振りをしていたり、そもそも疑問も抱かずに受け入れてしまっていることに対して強い憤りを覚えたりします。
またそれを容認しなかった場合、その後の自分の立場が悪くなることが分かっていたり、将来手にする成功とか安泰を失ってしまうことが明確であっても、ほとんど悩むことなくそれらを放棄し舞台から降りることを選択してしまいます。
ですがこのときの行動は、別に自分が正しくて勇気のある人間だからそのような選択をした──ということではなく、ただ抑えがきかなくてそうしただけなのです。それを受け入れなかったら困ったことになるのは重々承知しているんだけど、そのときには論理的に損得を考えたり将来の計画を立てるような精神的な落ち着きはなく、
とにかく受け入れることができない。だから俺は降りる
という、本当にただそれだけなのです。思考も働かないし、なんなら感情も働いていないのかもしれません。自分の中の何かがそれを強烈に拒否している。ただそれだけです。なぜそうなってしまうのかも分かりません。理解というものを越えた何か強い力に引っ張られているような感覚です。もちろん自分の中に絶対に譲れない倫理観や善悪の基準があってのことではあるのでしょうけど。
これはおそらくFiユーザーにとっての「自分がそれをどう感じるか」という指標に基づいた決断・行動とは別の「何か」です。
少なくとも「自分がどう感じるか」ではありません。反射的にそれを受け付けない。そこに自分の感情が関与しているかどうかも分からない。とにかく受け入れられない。集合的無意識をキャッチしてそれに操られるように突き動かされてしまうような感覚、とでも言うべきでしょか……とにかく、そんな感じです。全然うまく説明できていませんが。。
よくINFJは「自分が分からない」「自分の感情が分からない」と言われるのもこの辺が多少関係しているのかもしれません。自分の意志ではない、もっと大きな何かをキャッチしてしまって、それが答えを提示してしまっている以上、もはやその答えに逆らうことができないのです。
と同時に自分の確固たる感情(Fi)がないため、その確固たる感情に自分自身を固定しておくことが出来ません。そういう意味ではふわふわして頼りない印象を持たれているのかもしれません。なのに意見は曲げないという……
またTiがある程度強く働く人であっても、この「理解というものを越えた何か強い力」の前では理屈とか論理で選択・決断しようとするTiはほとんど無力となります。
人が自ら考え、選択・決定し、行動することができる意識(顕在意識)の領域は、全ての領域の中のわずか5%にも満たないと言われています。
その程度の力しか持たない顕在意識が思考して出した結論──つまり顕在意識で判断した選択ごときが、残りの95%以上の潜在意識・超意識から降りて来たと思われる直感の強さに勝てるわけがないんですね。少なくとも私はそういうものだと思っています。
乳幼児が世界の経済と株価の相関を理解する能力がないのと同じで(ただし乳幼児には大人が失ってしまった素晴らしい能力を持っている)どれだけ智慧と経験がある人でも、人知の及ばない領域の仕組みを「頭で理解する」ことは不可能です。ですのでその領域に突き動かされることの仕組みとか合理性なんかを正確に説明することはできず、ただ「それは確かに存在する」としか言えないのです。
Fiを主機能に持つINFPやISFPが(それをどう外部に表現するかはともかく)自分の中に強い信念を持っていて、それが自分を曲げない頑固さとして表れるのだとしたら、同じく一見温和そうに見えつつも頑固さでは引けを取らないINFJがINFPとミスタイプされてしまうのもちょっと分かる気がします。
でもINFJの頑固さというのは、
というところからくるのではないかと個人的には考えています。
以前に小ネタ的な内容で「心理機能の何かを連想させるミュージックビデオ」という記事を書いたのですが、そこに「Ni」を連想させるMVとしてEmbraceの『Come Back To What You Know』を取り上げました。大げさにいうとこのMVに出てくる人たちのような感じです。キャッチしたものに逆らえないんですね。
シネイド・オコナーに話を戻すと、彼女の行動の原動力がこの「理解というものを越えた何か強い力」をキャッチしたことによるものかどうかは分かりません。でも何か大いなる力、大いなる正義のために自らの感情やキャリアを無視して突き進んでしまうというところは、たしかにINFJっぽいのかもしれないなと思うようになりました。
たとえ勇気と行動力がある人だとしても、自身に向けられる非難や脅迫、はたまた信頼していた仲間たちからの手のひらを返したような冷たい態度に耐えられる心の強さも持っているとは限りません。むしろそういった気持ちの強さや図太さといったものを持ち合わせていないからこそ、虐待されたり差別された人の心の痛みを感じ取って立ち向かわずにはいられなくなるのではないでしょうか。
そしてそういう人の中には、自分の痛みを顧みることをしなかったがために自らの心を壊してしまう人も少なからずいるのだろうと思います。
私は老舗デパートが閉店してしまったときや、長く愛されてきたミニシアターがなくなってしまったときなどに
「最近は全然行ってなかったけど好きだっただけに残念です」
みたいな綺麗事を言う人が好きではありません。
みんなが行かなくなったから潰れたんだろうが。
本当にそう思うんだったらかけるべき言葉はそれじゃねぇだろう。
なんてことを言いたくなってしまいます。
ですのでシネイド・オコナーの訃報についても、同じように薄っぺらい哀悼の言葉を並べるつもりはもちろんありません。
ただ今回改めて彼女の経歴や歩んできた人生について少し調べてみたら、知ってはいたけどとくに気に留めていなかったことやそもそも知らなかったこと、そして当時のメディアの発信をそのまま受け取り間違って解釈していたことなどがあったのを知ることとなり、追悼的なことや都合のいい後出しの思い出話なんかは言えないんですけど、それでも色々考えさせられたので何か書いておきたいと思い、MBTIと絡めた内容ではありますがこうして記事にさせていただいた、という次第です。
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