水はその器に合わせて形を変える
はじめから決まった形なんて存在しない
愛もまた同じ──
第90回アカデミー賞で作品賞を受賞したギレルモ・デル・トロ監督の最新作『シェイプ・オブ・ウォーター』、ようやく観てきました。同監督の2006年(日本公開は2007年)の作品『パンズ・ラビリンス』では、主人公オフェリアと妖精の物語が現実なのか幻想なのか、はっきりとは示していませんでしたが、今作では(作中では)現実のこととして描かれています。見終わると、この「現実として描いた」ことが自分にとっては『パンズ・ラビリンス』に対しての感想も変える大きな要素となったのでした。
映画というファンタジーを存分に堪能
個人的にここのところよく見るようになったアメコミ系の映画などは特に顕著ですが、主に自国の社会問題や、政治的な主張・主義なんかを登場人物に背負わせている感が強く、そういうったものを見せられるのに少々疲れてきていました(もちろんそれも映画のひとつの側面ですし、否定する気は全くないのですが)。
しかし今作はそういった昨今の映画とは違って、純粋に「おとぎ話」を見せてもらったような感じで、久しぶりに映画というファンタジーを堪能させてもらいました。
というか最初っから、押さえつける側に対してNoと言う「声を持っていない」側の物語なので、キャラクターの鋳型にわざわざ別の主義・思想をはめ込む必要がないのでしょう。
『パンズ・ラビリンス』もフランコ政権下での暗黒時代、つらい現実の中で生きながら戦うことも逃げることもできない、そして声をあげることもできない女の子の物語でした。その頃から監督の視点や立ち位置は変わっていないようです。
ストーリーには直接関わってこないダイナーでの同性愛差別、黒人差別の描写や、怖~いストリックランドが妻やイライザに対して行う性暴力的な発言・行為など、見ていて気分が悪くなる場面がときどき出てきますが、そういったことが当たり前のように行われている世界で、「押さえつけられる側」である弱い立場・マイノリティの人たちが、正しいことのために立ち向かうのは「同じ側にいない者・その事実を知らない/見ようとしない者」が想像するよりもはるかに勇気のいることなのだろうと思います。
だからこそ心を打たれるわけですが、その対極として存在する「屈した側」の情けなさも描かれていて、自分はこうならないようにしなければ…と肝に銘じさせられたりもしました。イライザの同僚ゼルダのダメ亭主がそれで、自分より弱い立場の妻には偉そうに振る舞うくせに、強い立場の男が現れると自分が問いつめられているわけでもないのにすぐに口を割るというビビり具合。本人は言い訳していましたが、あれは「妻を守るため」からくる行動ではないでしょう。
ところで、そのストリックランドがキャンディ(でしたっけ?)をゴリゴリと噛んでいるのはストレスを感じているとき──だそうですが、あれを見ていてウルトラセブンの『第四惑星の悪夢』に出てきたロボット長官を思い出した人、結構いるのではないでしょうか。ってかギレルモ監督の映画を見に行く人たちなんだから絶対いるに決まってる(笑)。あの音は一部の人には冷酷な上官を無条件に連想させる、ちょっとしたトラウマ音かもしれませんね。
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