映画『セックスと嘘とビデオテープ』(ネタバレ)──テープに関わった人は皆、その影響を受ける

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ビデオテープがもたらしたもの

 グレアムのビデオテープについて、映画を見た人がどのような印象を持っているのか分かりませんが、私は当時から共感できる何かを感じていました。

 「自分の秘密を話す」ということはある意味ではセックス以上に自分を解放する行為のひとつなのかもしれませんが、この行為が人に特別な作用をもたらした大きな理由は、まず前提として

「閉じた空間」での行為

 であることが挙げられます。

 ビデオテープに収めるグレアムという男は、人との関わりを極力持たないようにして生きている「閉じた世界に生きる男」で、話した内容はもちろん、カメラの前でそれを話したということ自体グレアムしか知りません。

 そして大事なのは、それを受け止めるグレアムが

決してその「秘密」を否定せず

性的な内容であっても下品な聞き方や受け取り方をせず

相手の世界に干渉しない

 ということを守っている点なのではないかと思います。

 誰かがこれを見るかもしれない──という不安があったら、きっと本当のことをさらけ出して自分を解放するなんてことはできないでしょうし、秘密を知る唯一の男であるグレアムが、自分が話したことについて否定したり性的興味を持って干渉してきたら、それはもう別の行為(単なる“プレイ”の一種)になるだけでしょう。

 またカメラの前で話す女性がこれらの点について安心できたのは「自分は性的に不能」だとグレアムが伝えてきたことももちろん関係しているはずです。

 結局このビデオテープによるインタビューという行為は、グレアム自身にはそういう意図はなかったにせよ、ある意味完璧なカウンセリングであり、結果として登場人物4人のうち3人がこのビデオテープでのカウンセリングによって自己を解放することができました。

 つまりこの『セックスと嘘とビデオテープ』という映画は、タイトルや予告映像などから連想されるアブノーマルな印象とはかけ離れた

3人の心の解放の物語

 なのではないでしょうか。

 

シンシアの場合

 シンシアは一見しただけだと「物語の中での単なるトリガー役」で、登場人物4人の中では一番の脇役に見えなくもないですが、彼女の存在はアンにとって非常に重要な意味を持っています。

 アンとシンシアは生き方も性格も正反対と言っていいほどに違います。

 アンにとってシンシアは好き勝手に生きている困った妹、といったところなのかもしれませんが、シンシアの生き方にはそうなるべくしてなった理由があるのでしょう。

 美人で聡明、そして成功している弁護士を夫に持ち、大きな家に暮らす姉──

 おそらくは小さい頃からシンシアは「美人でよくできた姉」と比べられてきたのでしょうし、堅物でいつも自分を上から否定する姉に対して反発心を抱いて生きてきたのだろうと思います。それ故に奔放な生き方を選び、さらには姉の夫との不倫を続けていたのではないでしょうか。

 アンの夫ジョンが本当はどんな男なのかをシンシアは知っているので、不倫関係を続けてはいるもののジョンのことは人として全く好きではないし、愛してもいません。

 じゃあなぜそんな不毛な関係を続けるのか──。それはシンシアが抱えてきた問題は「姉との関係・姉との比較」であり、それを解消できないがためにその行き場のない思いを「姉の夫との不倫」という歪んだ行為によって吐き出していたのではないかと思います。(もちろんそんなことでは解決しないことは当人が一番わかっている)

 ですがグレアムと出会いビデオテープを通じて自己を解放したことで、シンシアは自分の欲求のはけ口として(そして姉への当てつけとしての意味も含めて)利用していたジョンとの関係を断ち切ることを決意します。そして反発してはいたものの、本当は大事に思っている姉との関係をよくしたいと思うようになるのでした。

 

アンの場合

 アンは夫と妹が不倫をしていたことを知り、いよいよ自分の中の不満や怒りが許容できないレベルに達します。

 ですが自分ではどうすることも出来ず、ただ車に籠ってエンジンを吹かし耳を塞ぐのみ。

 たとえ本当の解放に繋がらなくても、吐き出す手段を持っていたシンシアのほうがまだ心の病み具合は軽いと言えそうです。

 

 あちこち当てもなく走ったあと、アンはグレアムのもとを行き、あれだけ否定していたビデオテープのインタビューを自ら進んで受けることにします。

 アンは冒頭の精神科医とのカウンセリングのほか、部屋探しを手伝ったあとのグレアムとの会話やシンシアの部屋でのやり取り、そして夫の浮気に気づいたときの家の掃除の様子などから、明らかに何かしらの強迫観念みたいなもの(潔癖症に加えて他の何か)を抱えていて、シンシアの部屋に置いてあるものをいちいち触っては置き場所を直したりするところとか、ちょっと見ていて怖くなってきます。

 グレアムとの会話で「君は自意識過剰だ」と指摘されてすごく驚いていたように、おそらく本人は自分のちょっと異常なほどの過敏性みたいなものに気づいていません。でも同時に本人もそういう無意識の自分の行動や考え方みたいなものに息苦しさを感じているのでしょう。彼女が精神科医に診てもらっていることや、今の生活に心から幸せを感じてはいないのがその証拠です。

 またこのときのグレアムとの会話の様子を見ると、アンはシンシアや夫ジョンのことは全然理解できていないのに、グレアムとは何か合うものがあるのか、知り合って間もないグレアムのことがよく見えているように感じられます。

 

 ここでグレアムが言った

結局、役に立つ忠告ってものは
自分を本当に知ってる人でなきゃムリだ

 というセリフが、後々大きな意味を持ってきます。

 

 自分で自分の心を縛り、身動きできなくなっている自意識過剰なアンにとって「自己を解放する」方法は、自分について語ることによって自身の問題を吐き出すことではなく、

“自分と同様に病んでいて、健全ではなく、そして苦しんでいる──”

 グレアムの心を解放させてあげることだったのでした。

 グレアムの病んでいる部分を見つけて聞き出し、彼を導いていくことで、同時に自分の中の問題や溜め込んでいたものを解放し、アンは自由になれたのだと私は思います。アンがグレアムの後ろに回り、彼の肩に触れる前にロザリオを握りしめ、大きくため息をつく場面は、自分を縛っていたものから今まさに自己を解放しようと決意した瞬間であるように感じました。

 アンとグレアムには「心の問題を自分の内側に閉じ込めている」という共通点があり、外に向かって発散する(浮気・不倫をする)ジョンやシンシアとは違ったタイプといえます。アンはシンシアに対しては妹の意見をろくに聞こうとせず自分の考えを押し付けていましたが、グレアムに対しては違いました。

 グレアムの言い分を一度全部受け止め、自身の問題を認めたうえでグレアムの心の問題を指摘し、癒したのでした。

 

 少し脇道に逸れますが、外国語の習得について言われていることで、習得に役立つ方法をランクで分けていった場合「読む」「書く」などは効率としてかなりランクが低いのに対して、「話す」ことはそれらに比べて有効であるということはなんとなく実感として理解できると思いますが、実は最も有効性が高い方法は

「人に教える」

ことなのだそうです。

 

 ビデオを止める直前、アンはグレアムをソファに横たわらせて彼の手を取って自分の顔を触れさせます。またラストシーンでグレアムの横に座ったアンの手をグレアムが優しく触り、アンが微笑んでいる場面がありましたが、冒頭での精神科医とのカウンセリングで「夫に触れられたくない」と語っていたことがここでも強いコントラストとして効いているように思えます。他にもこういう「意味のあるセリフ・場面」は探せばいろいろあると思いますが、やっぱり面白い映画っていうのは細かいところまでちゃんと計算して作られているんだなぁと改めて感じさせられます。

 

グレアムの場合

 そしてグレアムもまた、自らが行っていたビデオテープでのインタビューを逆に自分が受けることで

人の人生に影響を与えないように

誰とも深く長い付き合いをせず

立ち入らず、干渉しない

 ことで保ってきた「自分だけの世界」で生きている自身の心の問題に気付かされることとなります。

 またこれまでグレアムの前には現れなかった、

「自分を本当に知っている人」

 が現れたことで「人に影響を与えることへの怖れ」から解放され、その人(=アン)に身を委ね、自分だけの世界から外に出ることが出来たのではないでしょうか。

 それにしてもクライマックスの場面、とくにアンがグレアムに逆に質問し始めるあたりからカメラをグレアムに向け、グレアムの心の闇(病み)をズバズバとえぐっていく会話の流れは本当に秀逸。

「ジョンやシンシアや君に比べたら僕のほうが正常だよ」

 というグレアムの言葉に対し、頷き、それについて否定はせず(自分も問題がある人間であることを認めて)そのうえで

「あなたも病気よ」

 と優しく言うアン。するとグレアムがもう観念したような表情を浮かべて頷き

「そう」

 と素直にそれを認めます。

 

結局、役に立つ忠告ってものは
自分を本当に知ってる人でなきゃムリだ

 

 グレアムがアンの指摘を受け入れる直前には「君は僕のことなんて何も知らないじゃないか」と言っていましたが、それはグレアムの中にある、閉じこもった殻から引きずり出されることへの恐怖心による最後のあがきであったように聞こえてきます。

 

 

 ラスト、グレアムの部屋の前で二人が微笑みながら話す場面での、

 

アン「雨になりそうね」

グレアム「もう降ってる」

 

 という台詞も、これからの二人は何か起こっても現実にちゃんと向き合い、受け入れていけるのだろう──ということが感じられるエンディングでした。

 とくにグレアムに関しては、自分の中の一番触れられたくない部分、指摘されたくない部分を思い切りえぐられた上で、その苦しみを同じ手によって癒されたわけですからある意味もう怖れるものなんてないでしょうからね。

 

 ところでこの映画に影響されて「自分もそういった相手と出会いたい!」なんて考える人がたくさんいるかもしれませんが(自分がそうでした 笑)、注意しないといわゆる共依存に陥ってお互いダメになって終了、というパターンにも成りかねませんので、くれぐれもお気をつけくださいね(笑)。

 

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