【オスタルギー】映画『希望の灯り』──海もビーチもイタリアもシベリアもそこにはある【2018年旧東独の旅】

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 どちらかといえば希望よりも絶望のほうが近いところにありそうな、社会の下層に位置する人々──

 でもそんな人々の生活の中にも、仕事仲間同士の支え合いがあったり男女の恋愛が生まれたりと、小さいながらも希望の光は灯っている──そんな意味合いを持たせて邦題を『希望の灯り』としたのでしょうか。

 旧東ドイツだった地域の中では2番目に大きな都市であるライプツィヒの近郊が物語の舞台。とある巨大なスーパーマーケット(天井高く商品が詰まれた規模感はIKEAあたりを彷彿とさせます)の在庫管理係として働くことになった、首から背中、そして手首まで入ったタトゥーが印象的な無口な青年クリスティアンと、その同僚たちとの日常が描かれます。

 

 

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「通路」にて

 原題の『In den Gängen』は直訳すると『通路にて』

 彼が働いている場所はまさに(巨大スーパーの)「通路」で、そこでフォークリフトの運転を覚えたり、棚越しに見た女性に一目惚れしたり、ぶっきらぼうながらも優しい先輩たちに教えられながら仕事を覚えていったり、好きな女性との距離を少しずつ詰めていきます。

 

 

 クリスティアンがアパートにいる描写も度々出てきますが、基本的にそこでは何も起こらず、そこには彼の人生の中で何か意味があるような場所という印象は受けません。今日の「通路での一日」と、明日の「通路での一日」を繋ぐ中継地点として機能しか果たしていないような感じすらします。彼の居場所はスーパーマーケットの中であり、あの「通路」なのですね。

 クリスティアンのタトゥー姿は彼が何か訳ありの男であることを連想させます。自室では上半身裸でいる描写が多いですが、それと対照的に作業着を着るときに首と手首のタトゥーを隠すようにしっかりと襟や袖を伸ばすシーンが何度も何度も描かれるのも印象的です。

 犯罪者だった自身の過去を断ち切り、極端に無口ながらも真面目に働いているクリスティアンですが、タトゥーを隠す必要もなく自由に過ごせるはずの自宅での様子は全く幸せそうには見えません。刑務所暮らしの記憶がそうさせるのでしょうか。

 彼の職場は華やかさとは縁遠い地味で狭い空間ですが、それでも彼にとってはあの「通路」での時間のほうが幸せなものなのでしょう。用無しと罵られることもなく、自身の過去を詮索されたり咎められたりすることなく受け入れてくれる暖かい人たちがいて、さらには好きな女性もいるというあの場所が。

 

 

 またクリスティアンは夜間の在庫担当として働いているので、勤務中の映像は大部分が夜です。オープニングも含めてたまに映る日中の外の様子も曇り空であることが多く、太陽に照らされた明るい日中の描写は、休憩中にブルーノから前職や家の場所を聞かさせた場面(ちなみにこのときの空は○ムトレイルまみれ。意図したものなのか偶然なのか…)と、クリスマスの前や年が明けた後など月日の経過を表す場面転換として差し込まれる少し物悲しい外の景色くらいです。同様にクリスティアンのアパートも室内は常に暗く日光が差し込むこともありません。これは彼らの生活がそれぞれどのようなものなのかを間接的に表現している部分でもあると思います。もちろんドイツの冬が実際にとても寒くて日照時間も短く、気分が暗くなりがちな気候ということから自然とそういうふうに見えるのかもしれませんが。。

 

 

 ちなみにクリスティアンたちがコーヒーを飲んでいる休憩室には南国のビーチを思わせる絵が壁に描かれていますが、夜のスーパーや曇り空といった暗い印象の光景ばかりの中で、この「絵の中のリゾート」という描写はなかなかの皮肉というか、物悲しさのようなものを感じさせるものとなっています。

 彼らは現実の世界では豊かさもリゾートのビーチも実際に体験することはおそらくなく、絵の中(これはメディアや政治家たちから見せられてきた「東西統一が幸せと豊かさをもたらす」という幻想の比喩なのかも)でしか見ることができません。またクリスマスに行われたささやかなパーティにてクラウスがパンツ一丁になって日焼け用のライトを浴びる場面では、

 

クラウス:イビサ島みたいだ!

ブルーノ:行ったことないだろ

クラウス:行きたくもない

 

 という会話があり、こういったところからも彼らの下層っぷりが感じ取れます。イビサ島やマジョルカ島などのスペインのリゾート地はドイツ人観光客がとても多いことで有名ですが、彼らには無縁なのでしょう。

 

 

 ってかそもそもここで行われる従業員たちによるささやかなクリスマスパーティ自体が、いつもお喋りしている搬入口?に賞味期限切れの肉や売れ残りの廃棄商品らしきものを持ち込んでやってるものなので、見ていて切なくなるものがあります(笑)。

 

 

オープニングの描写について

 冒頭で映し出される彼らの職場──物語の舞台となる巨大スーパーマーケットの「灯り」が消えた閉店後の様子のバックに流れるのは『美しく青きドナウ』。そこにフォークリフトがゆっくりと移動していきます。暗い店内をランプを点滅させたフォークリフトがモーター音とともに移動していく映像とBGMは、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』との皮肉めいた対比のようにも感じられます。

 

 

 

 

 

 『2001年宇宙の旅』では、類人猿が骨を宙に放り投げたあとの場面転換で宇宙に切り替わります。

 そこでは『美しく青きドナウ』をBGMに、カメラは宇宙の暗闇と明るい地球、そして太陽のまぶしい光をゆったりと追っていき、さらに近未来的なイメージの宇宙船内での様子(宙に浮くペンやCAの女性、ハイテクな設備)などが映し出されていきます。これが1968年の作品内で描かれる想像上の“2001年”の描写です。

 

 

 そして今作では使われているBGMと「暗い空間」という2点こそ同じではあるものの、そこに映し出される世界のスケール感は天と地ほどの開きがあります。しかも時代は現代(2018年の作品)という…。そこには明るい未来を信じて統一されたはずの旧東ドイツ地域の中の、日の当たらない(比喩的な意味で)世界、豊かになってゆくドイツ社会から取り残されていく「東側」の現実の一端を表しているように感じられました。

 

 

 スーパーの在庫管理係として働く彼らは、社会のなかではおそらく中間層~下層あたりに位置する人たちです。そしてドイツという国は現在でも旧東ドイツだった地域と旧西ドイツだった地域とでは人々の平均的な収入には格差があり、金銭的、物質的、さらには心理的にも未だ埋まらない壁のようなものが両者にはあるようです。

 とはいえ、もちろんそれは焦点を当てる人によって異なってくると思いますので、一概に東だからこう、西だからこう、と言えるものではないとも思います。旧東側の人たちでも豊かな暮らしをしている人はたくさんいるでしょうし(私の5年来のペンパルもそのひとり)、大都市と田舎の違い、世代の違いや得られた教育水準と育った環境の違いでも見方は大きく変わってくることでしょう。

 今作で登場するブルーノをはじめとした先輩従業員たちはみな、統一前の世界を知るかつての東側の人たちです。このスーパーで働いている男たちはみな統一前のライプツィヒ近郊で長距離トラックの運転手をしていましたが、その後時代の波に飲み込まれて現在の仕事に変わることとなり、現在に至ります。

 そしてブルーノは統一されてから20年近く経った現在では、かつての仕事を懐かしんでいるのです。

 統一されて豊かになるはずだったのに、ブルーノは好きだった仕事を奪われ、大型トラックからフォークリフトに乗り換えるという人生になってしまいました。

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