映画『ブレードランナー2049』(ややネタバレ)──世界の終わりとハードボイルド電気羊

『ブレードランナー2049』 ENTERTAINMENT
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 うちの父親が映画好きだったため、子どもの頃から映画館で洋画を見る機会があったことに今は感謝しています。

 

 スター・ウォーズ旧三部作をはじめ、今では貴重な資料となるパンフレットもまあまあの数があったんですが、それらが自分のレコードも合わせてごっそり断捨離されていたのを知ったときは目眩がしました(笑)。

 のちにカルト的な人気を博すことになる『ブレードランナー』も映画好きだった親のおかげで、情報も少ない田舎に住む少年だった私が幸運にも見ることが出来た作品のひとつだったのでした。

 

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ハン・ソロでもインディアナ・ジョーンズでもないハリソン・フォード

 

 というわけで『ブレードランナー』ですが、これは当時映画館では見なかったものの、家にビデオがあったのを高校の頃に見たのが最初です。ちょうど当時愛読していた雑誌「宝島」にブレードランナーの記事が出ていて「アレ、これってたしかビデオがあったはず…」と思って見てみたらどハマりしたのでした。

 

 田舎の高校生だった当時の自分にとっては、ハリソン・フォードといえばハン・ソロインディ・ジョーンズであり、“それ以外”の映画を見るのは初めてでした。見たのは88年か89年のどちらかでしたが、思春期で中2病、そして“当時の”宝島読者だった自分(役満かw)にとっては、スター・ウォーズやインディ・ジョーンズでは満たされない何かを、この『ブレードランナー』に感じたのでした。酸性雨の降りしきる近未来、サイバーパンク、進化したテクノロジーの光と闇、自分とは一体何者なのか、人はどこから来てどこへ行くのか……中2病にとってのご馳走が満載です(笑)。

 なんせ88〜89年っていったら「ベルリンの壁崩壊」「旧ソ連の終焉」「東ヨーロッパ諸国の変革」「チェルノブイリの事故」などなど、とりわけ欧州方面では激動の時代でしたから。

 

 残念ながら周りでこの話題を共有できる友達はいませんでしたが、その後上京してから数年後「ディレクターズ・カット」なるものが上映されることになり、さっそく観に行ったのでした。それまで散々見まくっていたことと、少し酒を飲んでから行ったため途中でウトウトしてしまったのは不覚でしたが(笑)、ここで初めて「デッカードもレプリカント説」の可能性を示唆するバージョンを目にすることになったのでした。

 

 

そしてついに続編が

 

 というわけでその後もいろんなバージョンが出てきたブレードランナーですが、この作品に関しては「(そりゃ見たいっちゃあ見たいけど)続編を作ってはいけない映画」という意見の人が多かったと思いますし、期待よりも「いや〜厳しいっしょ」というネガティブな意見が大多数を占めてしました。実際自分もそう思っていましたし…。

 

 そんな感じで非常に強い思い入れのあるブレランの続編、『ブレードランナー2049を観てきての感想は、

 

 

“あの世界観”を求めなければ全然アリ。

(ただしツッコミどころもアリ)

 

 

でした。我ながらけっこう意外。。

 

 前々から思っていたことですが『ブレードランナー』をカルト作品たらしめた要因のひとつでもある

 

あの「文化のごった煮」のような近未来のサイバーパンク的世界観

 

 は、おそらく今の時代では説得力を持たない世界なんじゃないかと…。

 

 具体的にいつからそれが「現実味のない、昔の人が考えた近未来像」であると気付いたのかは分かりませんが、おそらくインターネットが普通のものとなり、更にネットを介したあらゆる情報のやり取りが携帯端末で出来るようになったあたりから…ではないでしょうか。

 

 個人的に「これぞサイバーパンク!」と呼べる世界観を持っていた作品は、PSのゲーム『クーロンズ・ゲート』が最後だったように思います。そういえばVRで出るとか出ないとか………めちゃめちゃ気になるんですが。。。

 

 

酸性雨から雪へ

 

 そういった、何だか怪しげで文化も人種もごった煮状態、常に酸性雨(という言葉自体使わなくなりましたね…)が降り注ぐ暗くて不健康そうでガヤガヤした近未来の都会──がブレードランナーの舞台でしたが、テクノロジーの進化と文化や人の交流が違う方向に突き進んでいる現在、あのような風景は今後も存在することはないだろう──ということはもうみんなうすうす分かっています。

 

 「それっぽい街」を表現しようとしても、前作で表現されていた近未来と比べるとどこか広々として見え、それなりに秩序があるようにも感じられ、行き交う人々もそんなに不健康そうに見えないという、ここ十数年の間に公開された未来設定の映画などでもう見慣れている街といった感じでした。

 

 まぁ中国のアメリカ映画市場への参入がすごいことになっている現在で、日本語が思っていたよりもかなり多く出ていたので、それは安心?しましたけど。

 

 

 でもそういうところに期待しなければ、ひとつの映画としては全然悪くないですし、酸性雨のかわりに降り積もる雪と、進化しているが殺伐としている近未来の景色とのコントラストはなかなか情緒的なものがありました。

 

 見ていて何となく村上春樹の小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を思い出したのは私だけでしょうか。“壁に囲まれた静かな世界で、一角獣の頭骨で夢読み”っていう設定もどことなく共通するものがあるような……ないか(笑)

 

 

レイチェルさん登場

 

 あと、これは続編の話題が出たときに「こうなるんじゃないか」っていう予想はしていたのですが、その予想に限りなく近い形で登場してくれたレイチェルさん、ちょっとグッとくるものがないわけでもなかったんですが……でもちょっと待ってほしい。

 

みんなが見たいと思っていたレイチェルさんは、タイレル社で手を腰に当ててモデル立ちしているレイチェルさんではないはず。

 

 

 デッカードのところへ逃げてきて、髪をほどき、自分が何者かを知ったあとでデッカードに身を委ねた、あの美しいレイチェルさんではなかったのか、と。

 

 

…ま、設定的にそうなるのは仕方がないんでしょうけどね。。

 

 

気になったところ

 

 といったわけで思ってたより全然イケる続編ではありましたが、逆に悪くはなかったからこそ「それはないだろう」という点も挙げておきます。

 

 まず何といっても音楽。契約の問題でヴァンゲリスの音源が使えないとかそういう事情なんだろうけど、正真正銘の続編なわけですから、エンディングで流れるあのテーマ曲や「愛のテーマ」が何ひとつ出てこないというのはちょっと……。そうかと思えば“古き良きアメリカ”時代のスターのホログラムなんかが唐突に出てくるし…というのが残念でした。

 

 あのホログラムにも意味はあるのかもしれませんが、個人的には私たちが生きているこの世界とは別の時間軸の物語にしてほしかったので、ああいう「実在したもの」がそのまんま登場するのはファンタジーが崩れる要因になるんじゃないかなぁ…と感じました。

 

 次にジョイとの別れのシーン。かなり重要な場面だと思うのですが、あれってもうちょっと尺を取って叙情的に出来なかったんだろうか。。。

 

 人間と「人が創りしもの」との間で、“命”という非常に大きなものの意味を問うテーマの今作の中で、あまりにもあっさりしすぎだったのでは……

 

 それと、これは前作のレプリカント──ロイ・バッティ(&プリス&レオン)が良すぎたっていうのもあるんでしょうけど、一応のボスキャラとの戦闘シーンがあまりにも普通というか、怖さもなければ詩的な美しさもなく……(人物そのものは美しいと思います)ここはかなり残念なところでしたね。「別にこの人じゃなくてもいい」というキャラになっちゃっていましたから。

 

 あと最後に、これは内容と関係ないことなんですが、ガフが登場してテンションが上がったものの、ガフ役のエドワード・ジェームズ・オルモスさんは、個人的にはすっかり『バトルスター・ギャラクティカ』でのアダマ艦長のイメージが強くなりすぎてガフ感があまりなかったのがちょっと勿体なかったです(笑)。

 

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