友達かどうかを決めるのは相手ではなく自分
ここからかなり個人的な内容となってしまうのですが、自分にとっての「親友」と、あと誰かを「友達」だと決めるのは自分であるということを決断したことについて書いていきます。INFJの歩む人生(大袈裟かよ)のひとつの例として参考になれば幸いです。
まず、結構な年月を生きてきたおっさんとして言えるのは、
ということです。もちろんずっと変わらず親友であり続ける場合もありますが、どれだけの深い関係であっても「そういった関係の全てが不変」とはいえないのが人生です。まぁその辺は恋愛にも言えることなのでしょうし、割と若いうちにこのことに気付く人も結構いるかもしれませんね。
例えば学生時代に「親友」だと思っていた友人というのは、社会に出てから身について固まってくる価値観とかライフスタイルというものを知らない頃に育まれた友情から生まれたものなので、大人になって10年くらい疎遠になったりしてみると、びっくりするくらいに「あのときの硬い絆」みたいなものが薄まっていることに気付かされたりします。
私は小学校~高校までとあるスポーツにほとんどの時間を捧げていたような生活でしたので(高校の頃は一緒に住まわされたりもしました)、とくにその後の上京してからの学生時代と社会人になってからの生活で友達になった人たち(苦労とか努力を共有しない環境での友達)との感覚の違いは結構大きいものがありました。
なので20代の半ばくらいまでは、自分の中での「友達」というものの結束の強さは高校の頃までの友達のほうが圧倒的に優っていると考えていました。やや大げさにいえば神聖視していたのでしょう。
でもやっぱりそういう若い頃の感覚は変わってくるものなんですよね。もちろんかつての親友とは仲違いしたわけではないので友達なのは変わらないのですが…。
反対に大人になってから出来た親友という存在は、相手の人間性とか価値観をよく理解したうえで関係を深めた相手になります。
一緒にいて全く気を使うこともなく、時には平気できついジョークを言い合えるような相性の良さというのも重要になってきますし、普段気を使いまくりで自分と相手の間にバリアを張っているINFJの自分にとっては、こういう相手はとても貴重です。また真面目な話を延々とできるというのも大事なポイントになってくるので、それらを満たす人というのはそうそう人生に登場するものではありません。
そんなわけで私にとって「親友」と呼べる人は、もしかしたら今はひとりだけかもしれません。以前は他にもいたかもしれませんが。
ですが他の友達の中にも今後、親友となるかもしれない人がいないわけではありません。友達は数ではなく質であり、どれだけ良好で深い関係が持てるかが大事だと思っているので、今の友達だけでももちろん良いのですが、同時にこの世のどこかに、今の自分と真に素晴らしい友情を築き合える人がまだたくさんいる──というふうにも考えているので、新しい出会いにも積極的でもあります。(行動としての「積極的」というよりは気持ちとしての積極性の話ですw)
そして友達の定義についてですが、私はあるとき自分の中での「友達」というものの定義を変える出来事を経験しました。そこで自分が落とし込んだのは、
相手が自分のことをどう思っているかは全く関係なく、自分の中で「この人は友達だ」と決めさえすればその人は友達である──
ということ。
ここで最初のほうで書いたことに繋がってくるのですが、今の日本人の「友達」との関係の築き方ってものすごく受け身なんですよね。。
「相手が自分に○○してくれたら友達」
だとか
「自分は○○したのに相手は同じことを返してくれなかったからあいつは友達じゃない(もしくは自分は友達だと思われてない)」
みたいに。
見返りというか、ギブ&テイクの分量とか損得の度合いに極度にこだわっているように見えるのと、あとはとにかく相手が自分をどう思うか/どう扱うか、ばかりを考えているような印象です。
でもそういう関係って「友情」と呼べるものなんだろうか…。
逆の見方をすれば、自分のことを大事に扱ってくれるうちは友達だけど、そっけなくなったらもう他人とか敵ってことですかね。それって単なる損得だけの関係なんじゃないの?と。
またそこまで極端ではなくても、自分が率先して出来ないくせに相手には先に動いてくれることを求め、それをしてくれなかったら「あいつは自分のことを友達だとは思っていない」と簡単に判断してしまう──そんな感じに見えてしまうんですよね。
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