スウェーデンではなくノルウェーである理由
さて、最初のほうで、昭和のおっさん世代の一部にとって
私たち日本人には考えられない異様な風習を持つ北欧の人たち
というとスウェーデンではなくノルウェーを思い浮かべる──ということを書きましたが、それは作家の五木寛之氏によって書かれた小説の影響によるものです。
五木寛之氏といえば今更説明する必要など全くない有名作家ですが、海外(とくに旧ソ連や東欧、北欧、フランスなど)を舞台とした作品を多数発表しており、それらの作品に影響を受けたかつての若者は日本にたくさんいると思われます。当然私もそのひとりで、19歳~20歳あたりの頃にすっかりハマって海外モノの小説やエッセイなどは、20代初頭にはあらかた読んでしまいました。(逆に『青春の門』や『四季~』シリーズなどはほとんど読まず…)
私がハマった頃はすでに時代も平成でしたので、もちろん世代的には自分とは大きくズレているのですが、それでもリアルタイム世代と同様にインターネットもケータイも使ったことのない時代であり、情報源はほとんどが本やテレビ・ラジオからによるものでした。ですから、そういう意味では世代間のズレは今ほどは感じない時代だったのかもしれません。
なんでも気軽に情報が手に入る今と違い、本から得る知識や情報の影響力は相当なものがありました。そういう意味では五木寛之氏の小説は、ある種の罪深さのようなものがあるんですよね…。ロシアやスウェーデンの(女性やセックス観といったものの)イメージをある方向に植え付けてしまったという点で(笑)。
そして今回の話でいうと『ヴァイキングの祭り』という短編小説(新潮文庫『ソフィアの秋』に収録)によって、
私たち日本人には考えられない異様な風習を持つ北欧の人々=ノルウェー
という、けっこう強烈な固定観念を私たち読者は植え付けられてしまっていたのでした。
とはいえそれは『ミッドサマー』のようなホラー的な展開ではありませんので、ここで両者を結び付けるのもちょっとちょっと違うのかもしれませんが、それでも刷り込みとは恐ろしいもので(笑)、未だにスカンジナビア4カ国の中では圧倒的にノルウェーが暗くてやや怖いというイメージが抜け切っていないのもまた事実。
五木氏の作品にはそれら4カ国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド)が物語の舞台として何度も登場しますが、他の3カ国と比べるとあまりポジティブな印象は持ってなさそうな印象なんですよね。東京書籍から出ている『五木寛之 全紀行① バルカンの星の下に 北欧・東欧・中欧編』にも、それまでに数回ノルウェーを訪れた際に書かれたエッセイがいくつか載っていますが(かつて発表されたものの他に新録も掲載)最新の2002年のものでは比較的ポジティブな内容となっているものの、それでもやはり微妙な感じがするのは否めません。1975年のものから一部引用するとこんな感じです。
私はオスロで、はじめてムンクの絵に出会った。フログネル公園のヴィーゲランの彫刻を見たのも、そのときが最初である。そして何よりも私を驚かせたのは、そのオスロの町のもつ、一種の異様な平和さと、その底に隠されている不気味ななにかだった。
オスロの町と、その町に住む人びとの、穏やかさ、静けさは、もちろん、東京からやってきた私にとって、ひどく新鮮なものだった。だが、数日をその町ですごし、やがてムンク美術館やフログネル公園などを訪れるようになってきたとき、私はその町にある不気味なものの匂いを嗅ぐようになっていったのだ。それは、正体のつかめない、ばくぜんとした怖ろしさのようなものだった。目に見える平和さと、静かな人びとの生活の底に、深く、重く沈んでいる異様なもの。
それが何かは、私にははっきりはわからなかった。だが、この白夜の町の奥に、私たちの知ることのできないなにかがある、という感じは、私の記憶の中に打ちこまれた一本の錆びた釘のように、旅から帰ったあともながく残った。私はその感覚をたしかめるような気持ちで、数年後にひとつの短篇小説を書いた。『ヴァイキングの祭り』、というのが、その短編のタイトルである。
こうして読んでみると『ミッドサマー』の、ホルガの人々に対して感じる不気味さと案外共通する感覚があるような気がしてこないでしょうか(笑)。
まぁでも異文化、異教徒のコミュニティに放り込まれたら誰だってある程度の怖れは抱きそうですし、外国人が日本にやって来ていきなり田舎の奇祭に参加させられたりしたらきっと「ヤベェところに来ちまった…」と思うでしょうから、どちらが正しい・悪いという話ではないのかもしれませんけどね。
もちろんホルガになんて絶対行きたくありませんけど(笑)。
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