エンディング曲は懐かしの「Frente!」
またエンディング曲もなんか聴き覚えがあるなぁ~と思いながらクレジットを見て「あぁ~」と。そうそう、Frente!(フレンテ!)でした。懐かしいなぁ。ってかそういえばCD持ってたような…と急に思い出して探してみたらやっぱり持ってました(笑)。
このエンディング曲は『Accidentally Kelly Street』というタイトルで、アルバム『オーディナリー・エンジェル』(’94)に収録されています。
で、フレンテ!といったら上記のアルバムのタイトルでもある『Ordinary Angels』が一番有名だったような。
エンディングで流れる『Accidentally Kelly Street』は、今聴いてみるとフレンチ・ポップ風でもあり(英語ですが)、のちにブームとなるスウェディッシュ・ポップの流れのようにも聴こえますが(いや…そんなことないかもw)、紅一点のアンジー・ハートを中心としたオーストラリアのバンドです。ちなみにバンド名はスペイン語で、意味は「おでこ」。ふふふ。いかにも不思議ちゃん系の子がつけそうな名前ではないですか(笑)。
アルバム『オーディナリー・エンジェル』はもう買えないかもしれませんが、iTunesストアでベスト盤的なアルバムが販売されており、その中の2014リマスター版を聴くことができます。
CDが国内版だったので歌詞も読んでみたのですが、映画と大きくリンクするような内容ではありませんでした。ですが絶対に若者にしか書けない人生讃歌といったような歌詞と、無条件でウキウキするような軽快なサウンドが、決してハッピーエンドではないけれど、あの二人にはこの先たくさんのキラッキラした素晴らしい未来が待っているんだ──ということを約束してくれているような、前向きな気分にさせてくれる素敵なエンディングにマッチしています。
LGBT映画として再評価?
当時はただただ「おっと!そうきたか……」という、予想だにしない展開に意表をつかれたものでしたが、いやはや時代は変わるものですね。今だったら「あーはいはい、そっち方面の映画ですか」といった感じで、とくに驚きもしないというか。。
でもこの『藍色夏恋』が公開された2002年はまだ今ほど世の中に認知されていない時代です。(今もまだまだなんでしょうけど)ですのでまさかあの年代を主人公とした映画で、しかもあんなフツーの高校生がフツーに恋愛して友情と恋愛に挟まれて…みたいないい意味でオールドスクールな展開にしか見えなかった雰囲気の中でそれをぶっ込んできましたかー、と驚かされたわけです。
ちなみにロシアのお騒がせデュオ、推定s…じゃなくてジュエm…じゃくて、t.A.T.u.の『All The Things She Said』がヒットするのはここからちょっと後くらいのことで、Mステをドタキャンしたのは2003年のことです(笑)。この曲で二人がキスするところが話題になったりしてましたけど、自分も周りも皆、あんな商売っ気たっぷりなパフォーマンスにいちいち食いつかんでも…という感じで冷ややかに見ていましたね(笑)。
あの二人のその後はきっと…
高校生じゃなくても、男の立場からしたらモン・クーロウが打ち明けた“秘密”は、自分を傷つけずに振るためのウソだと誰だって思います。合コンとかで気になった子にLINEか何かの連絡先を聞いて「ごめん、私ケータイ持ってないから」とか言われるよりよっぽど優しい断り方だと思います(笑)。
でもそうじゃなかった。本当にそうだったから、振られたチャン・シーハオにしてみれば「そういう理由ならもうどうしようも出来ない」となるでしょうし、そもそも一番切ない状況にいるのはモン・クーロウなので、彼女にとってはチャン・シーハオに好かれても困るし、親友であり自分が恋している相手でもあるリン・ユエチェン(林月珍)が、本人の望み通りにチャン・シーハオとくっ付いても嫌──という、完全に詰んだ状態になっていて可哀想になってきます。
それでも深刻に同情するようなところまでいかないのは、きっと高校生の彼女にとってこれはまだ本当の愛ではない、というのが見てる側にも分かるからなのだろうと思います。
と、そんな感じで成就することのなかった二人の恋ですが、それでも二人にとっては、とりわけモン・クーロウにとってはかけがえのない経験となった夏だったことと思います。
たとえ恋敵?であったとしても、誰かに「好きだ」と言ってもらえるのは本当に嬉しいことですし、勇気をもらうことでもあります。そして誰にも言えなかった秘密を打ち明けた相手として、チャン・シーハオのことは特別な人となったはず。もちろんチャン・シーハオにとっても、そんな理由であれば仕方ない──と受け入れた上で、それでも「いつか男を好きになる日がきたら、まず自分に連絡をくれ」と伝えることで彼女の背中を少しだけ押してあげつつ、自分もちょっぴり成長した夏となったのではないのかなぁと。
これは男目線での解釈ですが、チャン・シーハオはきっと「彼女が自分を恋愛の対象として好きになることはない──」と心の中では悟っているはずだと思うんですよね。でもこれから先、彼女がもし傷付くことがあったときに心の拠り所になる誰か(自分)が必ずいるんだから心配するな、というような意味合いもそこにあったんじゃないかなと個人的に思いました。
あと、これは2002年に見たときにも感じたことですが、今回改めて見てやっぱり思ったのは、
この二人はこの先、きっと「お互いの人生にとって、とても大切な、いい友達になる」
ということ。おそらく多くの方がそう思いましたよね。そう思うからこその、あのちょっとほろ苦くも爽やかで前向きな気分になれるエンディングだったのではないでしょうか。
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